ep058「あの子が言えなかった一言を言わせるために、俺は町ぜんぶの物を吹き飛ばした」
来た。
「おはようございます。お怪我は、ありませんでしたか」
こっちが行く前に、向こうが来る。
その手は、空いていなかった。
通りはもう動いていた。籠、布でくるんだもの、柄だけが外に出ているもの。
手ぶらの者は一人もいない。
その中で、この人の手だけが、朝からふさがっている。
俺の目が、そこで一度止まった。
男は見せもしない。隠しもしない。いつもの笑い方で、そこに立っているだけだ。
「――返してやってくれ」
言えたのは、それだけだ。
どんな物なのかは、俺にはまだ分からない。大きさだけは知っている。手に載る。
「もちろんです。落とし主の方が、名乗り出てくだされば」
同じ言葉が、同じ調子で返ってきた。急いでもいない。困ってもいない。
俺のほうが、先に黙った。
荷馬車のほうから、リゼが歩いてきた。
「その物は、もう、持ち主の分からない物ではありません」
「この町の決まりは、そこまでです」
短く言って、それきり口を閉じる。
男は笑ったまま、頭を下げた。否定もしない。この町では、誰も俺の言うことを否定しない。
通りかかった女が、手を止めずに頭を下げていった。下げられたほうも、下げ返す。
朝の通りは、それでずっと動いている。
視界の端の数字は、朝からそこにある。
充実度26%。
……朝いちばんで見舞いに来られると、殴る理由がなくなるんだが。
通りのどこかで、物が手から手へ移った。
その音が、また、一つの方角へ寄っていく。
その先に何があるかは、この町の誰も言わない。
俺は通りの先へ歩き出した。
頭を下げていた。
名前も知らない男の前で、立ち止まって、深く、一回。
「あの子の物を、返してやってくれ」
相手は手を止めない。籠を抱えたまま、頭だけ下げる。浅い。それから次の用へ歩いていく。
断られた。悪気はない。困った顔もしない。この町の人は、断り方まで親切だ。
この町の者は、歩きながら頭を下げる。止まらないし、深くもならない。
俺だけが、足を止めて、深く下げている。
次の一人の前でも、同じことを言った。籠を抱えた女は、笑って行く。
その先の、両手のふさがった男にも下げた。
手が空いていないので、代わりに眉だけ動かして断られた。
断られるたびに、次の一人のところへ行った。
この町の人は、みんな用の途中だ。用の途中で、みんな親切だ。
その次も、そのまた次も、誰も手を止めなかった。
視界の端で数字が落ちた。
充実度5%。
……頭って、下げても下げても減らないんだな。
俺が身を起こすころには、道はもう先へ動いている。
誰も、何を返してやってくれとは訊かなかった。俺も、それが何かを言えない。
荷馬車のそばでリゼがこっちを見ていた。何も言わない。白猫も荷の上から見ているだけだ。
断った者が、そのまま次の者のところへ行って、何か言った。
言われた者が、こっちを見て、また別の者へ渡した。
手はどれも止まっていない。
次に足を止めた相手は、俺が口を開く前に頭を下げていた。
話のほうが、先に着いていた。
「あんた、いい人ですねえ」
褒めた口も、手を止めない。頭も深くならない。それでも、行きがけにそう言っていく。
道の向こうでも、同じ声がした。その向こうでもした。
視界の端で数字が跳ねた。
充実度48%。
道の上の音は、朝と同じ方角へ寄っていく。俺のほうへは、一つも来ない。
この町は手が余っている。それなのに、あの物のほうへ伸びる手だけがない。
断られた先から、まだ人がいる。
俺は町の広いところへ足を向けた。
町の広いところに出た。
人手の動く刻は過ぎていた。物が一つの方角へ寄っていく時間だ。
端に荷馬車が寄せてあって、リゼが荷のわきに立っている。白猫はその足元だ。
あの子は、少し離れたところにいた。手には何もない。
あの男は、いつもの顔で笑っていた。手だけが、朝からふさがったままだ。
俺は端のほうに立っていた。物が通り過ぎていくのを、ずっと見ていた。
立っていると、横から手が伸びた。
俺の手の上に、何かが載った。
載せたほうは、何も言わない。名前も訊かない。もう次の用のほうを向いている。
布でくるんである。中は見ない。あらためる者は、この町にはいなかった。
俺の物ではない。誰かの物が、渡る途中で、俺のところへ来た。
視界の端で数字が走った。
充実度98%。
……輪に入れてもらった。入った瞬間に、出ていくことになった。
足元の白猫が、猫でなくなった。
着崩した神衣の裾が石畳を撫でて、目の下にクマのある女が立っている。色気だけはある。
この姿を見るのは久しぶりだった。
「――少し、下がりなさい」
声は大きくない。それなのに、道の端の人が、みんな一歩だけ下がった。
驚いた顔は一つもなかった。誰も逃げない。誰も騒がない。
手に持った物も、そのままだ。
俺は、載せられた物を手に持ったまま歩いた。
一歩ずつだ。誰も止めなかった。走らない。逃げない。
この町で、俺の手に他人の物があるのは、これが初めてだった。
道の端の人は、下がったまま動かない。
誰も、俺の名前を訊かない。この町では、それがふつうだ。
広いところの真ん中まで来た。ここなら、届くのは物だけだ。
息を吸った。今度は、間に合った。
「――爆ぜろ、俺」
充実度0%。
世界の縁が白くなって、足の裏だけが地面を覚えていた。
息を吸うと、口の中まで土の味がした。
土の匂いがする。空が、いつもより広い。
視界が晴れると、町じゅうの物が空を横切っている最中だった。
爆風はこっちの都合を聞かない。どの手からも、物が離れた。
俺の手からも。誰の手からも。
倒れている人はいない。飛んだのは物だけだ。
誰も自分の手を見なかった。いちばん近くに落ちているもののほうへ、手が出ていた。
あの男の手からも、一つ出た。
通りの上を横切って、道の真ん中あたりへ落ちた。
とん、と、軽い音がした。手に載るくらいの物の音だ。
荷馬車のほうでも布が飛んで、こまごました物が道へ出た。
その一つが、糸の切れた振り子だった。荷のどの順にも入らないところにあったものだ。
リゼが走った。
この町に入ってから、初めて見る速さだった。顔は変わらない。
「……それは、私のです」
「どんな物です?」
「……糸の、切れた振り子です」
それは、すぐにリゼの手へ渡った。渡した者は、もう次の物のほうへ歩いている。
訊いたほうも、答えを聞いたら、それ以上は何も訊かなかった。
それだけで済んだ。
道の脇に、あの子が立っていた。
両手は空いたままだ。顔は、リゼのほうを向いていた。
道の上には、まだいろいろな物が出ている。手が、次々にそれを見つけていく。
誰かが、道に落ちた一つを見つけて、次の手へ渡す前に、顔を上げた。
「これ、どなたの?」
「……私の、物です」
あの子だった。声は小さい。途中で切れる言い方も、いつもと同じだった。
そして、その隣で、もう一つ。
「……私の物です」
あの男だった。声も、間も、朝と変わらない。
この町で、この人が自分から名乗ったのを、俺は初めて聞いた。
二人いる場合の定めは、聞いたことがない。
だから訊かれたのは、この町がいつも訊く一つだけだった。
「どんな物です?」
男は、正しく答えた。
あの子は、形を言わなかった。
「……もう、誰もいない家の、いちばん奥にあったものです」
決まりのとおりなら、そこで済んでいた。
それでも、町の手が、止まった。
誰も怒らない。誰も咎めない。声一つしなかった。
そして、止まっていた手が、あの子のほうへ行った。
……こういうときだけ判断が早いな、この町。
男は、開いた手を、そのままにしていた。
その上には、何もない。
「……そうですか」
それだけだった。頭を下げて、笑ったまま、そこに立っている。
充実度52%。
町の出口の道まで、リゼが荷馬車を歩かせた。
あの子が立っていた。
手に、何か持っている。この町で、この子の手に物があるのを見たのは初めてだ。
追っては来ない。荷も持っていない。
「……これ、私の物です」
誰にも訊かれていないのに、もう一度言った。まるで練習だ。
俺は返事をしなかった。頷いただけだ。
道の方々で、物が返っていく。飛んだぶんが、また手から手へ動いている。
その流れの中から、一人が俺のほうへ来た。
「これも、落としましたよ」
手の上に、黒いものが載った。俺の物ではない。
俺が爆ぜたあとに出てくるものと、同じ黒さだった。
「……なあ。いまの、誰が寄越したんだ」
神衣が消えて、足元に白猫がいた。
「……いまのは、私、現認してないから」
誰も名乗り出なかった。
背中のほうで、誰かがこっちへ歩いてくる気配がした。
礼を言われる前に、俺は歩き出した。
どこへも、あの音が寄っていかなかった。
手の上に、黒いものが一つ。
充実度27%。
誰も名乗り出なければ、最後に手にした者のものになるらしい。
「――ああ。もらっとく」




