ep057「助けようとして爆ぜた俺、あの子の物を、いちばん親切な男の手に返してやった」
手には、自分の物しかなかった。
誰も、こっちを見なかった。
「ミツルくん。あなた、今日は暇そうねえ」
この町では、手に何か持っている者どうしが、勝手に喋る。ただし、その半分は自分の物ではない。自分の物しか持っていない男の前では、誰も止まらない。悪気は、たぶん、一つもない。
朝の通りに出た。あの男のところへ行くつもりだった。
出たところで足が止まった。
肩をかすめた女が笑いながら通り過ぎていく。腕の中の包みは、たぶんその人のものではない。渡す先へ持っていく途中の顔だ。
その先で二人が何かを受け渡している。手から手へ移るときの乾いた小さな音がした。
立ち止まる理由が、俺の側に一つもない。避けられているのではない。手に何も預かっていない人間には、話しかける用がないだけだ。
俺の手の中にあるのは黒い土だった。
握り直すと指のあいだで少し崩れた。俺が爆ぜたあとに出てくるものだ。渡す先も、訊く相手もない。
……自分の物しか持ってないと、この町、こんなに広いのか。
それでも歩いた。
あの男はいつもの場所にいた。手が空いていて、よく笑う。近づくと先に会釈をよこした。
「あれ、どんな物なんだ」
訊いたのはそれだけだ。なぜ返さないのか、とは訊かなかった。
男は少し困ったふうに笑った。
「お預かりしている物のことは、私からは申し上げられないんです」
それから付け足すように言う。
「名乗り出てくださる方には、お訊きしますけれど」
断られたのに、断られた気がしない。そういう言い方だった。
男は笑ったまま、何も足さなかった。
足せる者は、この町にもう一人いる。そっちはまだ一度も口を開いていない。
籠を抱えた女が、手も止めずに横から言った。
「あの方は、よくしてくださいますよ」
悪意はない。同情もない。そうなのだ、というだけの声だった。
視界の端で数字が下がった。
充実度1%。
町ぜんぶが正しくて、疑っているのは俺だけだった。
俺は荷馬車のほうへ歩いた。
荷馬車の幌が上がっていた。
この町に入ってから初めてだ。
布の上にこまごました物が出ている。鍋、櫛、留め金、糸巻き。
リゼは荷台の横に立って通りのほうを見ていた。
人は通る。足を止めて物を眺めていく者もいる。それから笑って行ってしまう。
眺めていた女が、そのうち自分の腕の中の包みを見て、思い出したように歩き出した。行き先はこの通りの先だ。
昼が近くなっても、一つも売れなかった。
「持ち主の分からない物が、勝手に返ってくる町では、物を買う理由がありません」
リゼは幌の紐を解いた手をそのままに、淡々と言った。それから、こっちを見た。
「名乗り出るのは、『その物を知っている人』ではありません。『その物は自分の物だ』と言える人です」
「……ミツルさん。あなたは、前の方になろうとしています」
言い終わると、それきり口を閉じた。短く言って結ぶのがこの解呪師のやり方だ。
返す言葉が出てこなかった。
荷台の下から白猫が顔を出した。
「……いまから、関係ない話をするわね」
先に宣言された。逸らす気だと身構えたが、話はそのまま関係のないほうへ行った。
「うちの窓口も、落とし物を預かるのよ。名乗り出た人にしか、決裁が下りないの」
「名乗らない人の物は、うちの記録でも、誰の物でもないの」
「……どこも同じかよ」
白猫はそれだけ言うと、また荷台の下へ引っ込んだ。
通りのほうで、女が誰かに言っている。
「フーゴさんに持っていけば、すぐですよ」
そう言って、女はもう次の用へ歩いていた。
昼までに通りの空気が変わった。
あの子のためなら、と誰かが言った。すると別の誰かが手を出した。
物が動いて、また誰かの手に移る。手が足りている町だ。
誰も、あの人を疑っていない。善意しかない。それが朝からずっと一方へ流れていく。
視界の端で数字が跳ねた。
充実度47%。
……親切ってのは、こんなに手が早いものだったか。
俺はその場から動かなかった。
同じ音が、朝から、ほとんどしていなかった。
この町でいちばんよく聞こえていたはずの音だ。
昼下がりは、この町でいちばん人手の動く刻だ。
通りの端から端へ、誰かの手から誰かの手へ物が移っていく。
あの男はその場から動かない。それなのに用のほうが寄ってくる。
誰かが何かを渡していき、誰かが礼を言って離れていく。よく笑う。よく礼を言われる。
俺は少し離れたところから見ていた。近づいても、もう訊くことがない。
荷馬車の陰からリゼがこっちを見ている。何も言わない。
男の手の中に、あの子の物がある。
大きさだけは分かる。手に載る。それ以上は朝からずっと分からないままだ。
男がそれを隣の手のほうへ少し出した。
受け取る側は気づいていない。別の話をしている。
出しかけて、やめた。手の中へ収め直して、また笑う。
誰も見ていない。
俺だけが見ていた。
しばらくして、また同じ動きをした。
その前に一言だけ聞こえた。
「……お急ぎでもありませんし」
こんども同じところで止まった。指がいったん開いて、また閉じる。
男の指が、また少し開いた。
いまだ、と体のほうが先に決めた。
息を吸った。吸ったところで、もう遅かった。
喉の奥から勝手に声が出た。
「――それ、俺の」
言いかけた、その袖を、掴まれた。
もう袖しか残っていない上着の、その袖だった。
「……あなたの、じゃないです」
手は、離れなかった。
いつのまにか真横にいた。
何も持っていない手が、俺の袖を掴んでいる。顔は上げない。明るくも暗くもない、途中で終わる言い方だった。
袖を掴む手には力が入っていない。それなのに外れない。
視界の端で数字が滑り上がった。
充実度98%。
……袖だぞ。袖で98%かよ。
足元で白猫が短く言った。
「ミツルくん。走りなさい。いまなら、いちばん端まで行けるわよお」
振り払った。
離れない手を、こっちから振り払った。指が袖から外れるときの引っかかりが手首に残った。
走った。人のいないほうへ。
荷馬車の脇を抜けて、店の切れ目を抜けて、家の途切れる先まで。
誰も追ってこない。この町の人は追わない。囲まない。声もひそめない。
石畳が跳ねる。上着の袖が風で暴れる。背中が熱い。
数字は走っているあいだも下がらない。だから逃げ切れる。位置取りと足だけは、こっちのほうが上手い。
家の途切れたところで足を止めた。振り向かなかった。
通りの端で爆ぜた。
充実度0%。
しばらく耳が仕事をしなかった。世界の縁が白い。
膝から下だけが地面に触れていて、あとは自分の体がどこにあるのか分からない。
息を吸うと、口の中まで土の味がした。
視界が晴れると、通りの向こうでいろんな物が空を横切っている最中だった。
爆風はこっちの都合を聞かない。町じゅうで物が動いた。
倒れている人はいない。飛んだのは物だけだ。
それでも俺の目が追ったのは、一つだけだった。
あの男の手から抜けたそれが、通りの向こうまで飛んで、屋根の下の陰に落ちた。
誰かが足を止めて、それを見つけた。
そして当たり前の顔で、あの男のところへ持っていった。
持っていった者は名前も言わなかった。渡して、また自分の用へ歩いていった。
名乗り出る者はいなかった。
あの子も何も言わなかった。
あの男が、手を閉じた。
かたん、と同じ音が町じゅうで一度に起きた。
そして、また、一つの方角へ寄っていく。
起き上がると通りは片づきかけていた。
誰かが誰かの物を抱えて歩き、途中で別の誰かに渡す。渡された者がまた歩く。
倒れている人はいない。飛んだのは物だけだ。
俺は通りの端から元の場所へ歩いた。
上着の袖が片方だけ、まだ少し引っ張られた形のままだった。
荷馬車のところでリゼが幌を下ろしていた。何も言わない。足元の白猫もこっちを見ているだけだった。
あの子がこっちへ歩いてくる。
俺が爆ぜたほうからだった。裾にまだ細かい土がついている。
立ち止まって、両手を前に出した。
その手に黒い土があった。
差し出されたものを受け取った。声は出さなかった。この子も何も言わない。
……初めて人にやる物が、それか。
視界の端で数字が上がった。
充実度49%。
手の中で黒い土が少し崩れた。朝からずっと同じ場所にあったものだ。俺の手を離れて町のどこかまで飛んで、この子の手を通って、また俺のところにある。
通りの向こうで、あの男が持ってきた者に礼を言っていた。
いつもの声、いつもの笑い方だった。慌ててもいないし、急いでもいない。
誰も名乗り出なかった。誰も、おかしいとは言わなかった。
町ぜんぶがいつもどおりに正しく動いただけだ。
その手は閉じたままだった。
「では、これで」
その手の中に、あった。
いちばんきれいに返してやったのは、俺だ。
充実度26%。
「――フーゴ」




