ep056「見てたと言っても通らなかったから、前世でいちばん惨めな話をした」
「はい」
男は、そう言った。俺が言ったことに、そう言った。
この町で、俺の言うことを否定した者は、一人もいない。
そして、何一つ動かなかった。
それでも朝いちばんに、もう一度だけ言いに来た。言ったのは、それだけだ。
「手が出るのを見たんだ。あれは、あの子のだろ」
「はい」
同じ返事が、同じ顔で返ってきた。疑われてもいない。
よく笑う人だ。朝から笑っている。
道はもう動いていた。手ぶらの者が一人もいないのは、この町ではふつうのことらしい。
布でくるんだもの。柄だけが外に出ているもの。抱えたまま、みんな用のほうへ行く。
男のところへ、人が来る。何かが渡る。渡された者が頭を下げていく。下げられたほうは、そのたびに笑って手を振る。
その手には、何もない。渡したそばから、次の者が来る。
「……それだけか」
男は頭を下げた。急いでもいない。
俺の言ったことは、否定されないまま、どこへも行かない。
次の用のほうへ行ってしまった。
通りかかった者が、手を止めずに言った。
「名乗り出る方がいらっしゃれば、すぐ返るんですけどねえ」
悪気はない。同情でもない。用のついでに、そう言っただけだ。
そのまま道の向こうへ行ってしまう。
……信じてるのに、何も返ってこないってのは、どういう仕組みだ。
充実度13%。
俺は荷馬車のほうへ歩いた。
リゼは荷のわきに立っていた。
俺が何か言う前に、荷のどの順にも入らないところへ手を入れた。それを出して、俺の手に渡す。
それきりだ。何も訊かれない。
俺が爆ぜたあとの土だった。焼けたところを、削り取ってある。
白猫は荷の上から見ている。口を開かない。
道の真ん中まで歩いて、手を離した。
地面に届く前に、横から手が出た。
「落としましたよ」
俺は否定しなかった。
嘘はついていない。何も言わなかっただけだ。
それだけで、それは持ち主の分からない物になった。
受け取った者が少し歩いて、通りかかった者へ差し出す。差し出されたほうは断らない。
中身をあらためもしない。どこから来た物かも訊かない。
手から手へ、俺の残骸が動いていく。
どの手にも長くは残らない。
誰も俺のほうを見ない。出したのが俺だと知っている者もいるはずだ。それを言う者はいない。
とん、と音がした。物が人の手に落ちる音だ。
少し離れたところでも、同じ音がした。その向こうでもした。
町のあちこちで、同じ音がしている。ずっと前から、そうしていたんだろう。
白猫が荷の上で目を細めた。
「うちの言葉だと、たらい回しっていうのよね、これ」
困った様子がひとつもない。
「なあ、あれって、結局――」
「そうねえ。ひどい話よねえ」
あとは何も言わない。目を閉じてしまった。
俺はしばらく目で追った。追いきれなくなった。人と人の間へ入って、出てきて、また入る。
道の向こうでは、俺のではない物が、同じように動いている。
日が高くなって、傾いた。
気がつくと、それはあの男の手の中にあった。
誰も、そこへ持っていけとは言っていない。俺も言っていない。道の誰も言っていない。
「……それ、俺のだ」
「どんな物です?」
訊かれたのは、それだけだった。
「土だ。焼けたところを、削り取ってある」
男の手の中から、それが出てきた。
俺の手に渡って、男はもう次の用のほうを向いている。それ以上は、何も訊かれない。
名乗って、答えた。それで出てきた。
……俺の残骸に、この町の連中、三人も手を貸してくれたぞ。
充実度53%。
道の端に、娘が立っていた。
こちらを見ている。目が合う手前で、顔が下がった。
もう一度、男のところへ行った。
男は道の脇にいた。人が来ると何かを渡す。渡した手は、また何もなくなる。
「それ、返してやってくれ」
「もちろんです。落とし主の方が、名乗り出てくだされば」
断られていない。笑ったままだ。
この人は、本当にそう思って言っている。
娘は少し離れたところにいた。何も持っていない。こちらへ来ようともしない。
何も言わない。
「じゃあ、俺が――」
「どんな物です?」
言い終わる前にかぶってきた。間がなかった。
口が止まった。
言いかけたところで、続きがなくなった。
俺が見たのは、あの子の手が伸びて、途中でやめたところまでだ。
何へ伸びたのかまでは見ていない。いまも、それは男の手の中にある。
さっき聞いたのと、同じ問いだった。同じ人が、同じ調子で訊いている。
今度だけ、何も出てこなかった。
「……私のじゃないです」
娘が言った。嘘をついている顔ではない。困った顔でもない。
決めてから言ったようにも見えない。
通りかかった者が、用のついでみたいに言った。
「……あの子のところ、いまはあの子だけですから」
それだけ言って、行ってしまった。声をひそめもしない。
誰も、俺たちを囲んでいない。
誰も、悪くない顔をしていた。
リゼが、短く言った。
「……あの人は、一度も、決まりを破っていません」
それだけだった。それ以上は言わない。
白猫は、まだ目を閉じたままだ。
俺も、何も言えなかった。
娘が顔を上げた。
俺の顔を見ている。初めてだ。すぐには目を離さなかった。
充実度54%。
……1、って。
男が、手の中のものへもう片方の手を添えた。
「……そうなりましたら、こちらでお預かりします」
出しかけて――やめた。
添えた手が、また離れる。何が出かかったのかは、見えなかった。
「では、そのように」
頭を下げて、行ってしまった。声も荒げない。急いでもいない。
日が落ちた。
同じ音が、減っていく。
夜になった。
道の人が引いていく。手に何か持ったまま帰る者もいる。
同じ音は、もう、一つの方角からしか聞こえない。
昼のあいだ、あちこちでしていた音だ。それが、一つに寄っている。
娘は、道の端に立っていた。何も持っていない。
リゼは荷のわきにいる。白猫は荷の上だ。どちらも何も言わない。
俺は、訊かれてもいないのに喋りだした。
「……前にいたところの話なんだけどな」
誰も、そんな話をしてくれとは頼んでいない。
「学校で、みんなで一つ書かされるものがあってさ。俺だけ、書けなかった」
道を行く者が、そのまま通っていく。手は止まらない。
この町では、差し出されたものは必ず誰かの手へ渡る。中身もあらためない。
断る理由がないという顔で、受け取っていく。
誰の手も出なかった。
この町で、どの手にも渡らなかったのは、それだけだった。
……口が勝手に喋ってる。誰か止めろ。
中学一年の文集の、将来の夢の欄の話だ。空欄のまま出したら、先生が、鉛筆で薄く何か書いて返してきた。
充実度28%。
娘が、手を出した。
「……それ、預かっときます」




