ep053「糸の切れた振り子を直してやろうとしたら、直さない理由のほうを聞かされた」
幌の中は、外より暗い。
いま何刻なのか、分からない。
音が、体の下から来る。前より低い。
そして、半拍、遅い。
……歩いたほうが速いんじゃないか。
誰も動かない。リゼは手綱を握ったままだし、白猫は場所を譲る気がない。
布の目から光が落ちている。床板に当たっている面が、前より狭い。
前は俺の膝まで届いていた。いまは、そこまで来ない。
俺は膝を立てて座っている。伸ばせるだけの床板が無い。そうしていると、震えが膝の裏から背中まで通ってくる。
焦げて袖だけになった上着の裾が、そのたびに少し動く。
荷は増えた。それなのに順序は乱れていない。壊れやすいものが先で、いちばん下に入るものが最後。前と同じだった。
リゼは御者台と幌の境に座っている。背中だけが明るいほうにあって、顔は見えない。
フェリシアは、いちばん座り心地のいいところを占めている。柔らかい布の上で、丸くなるでもなく、体を長くして伸びていた。
「そこ、譲る気ないだろ」
「無いわね」
「先に見つけたのは俺だぞ」
「先に座ったのは私よ」
「せめて半分は譲れ」
「半分にすると、二人とも座り心地が悪くなるでしょう。私が全部使えば、悪いのは一人だけよ」
「悪いのが俺だけになるだけだろ、それ」
「そう。無駄が無いわね」
「無駄しかないんだが」
うちの女神は、こういうときだけ話が早い。
「体格差というものがあってだな」
「ええ。私のほうが小さいから、そこしか合わないの」
通っているように聞こえて、一つも通っていない。
リゼが前を向いたまま言った。
「ミツルさんは、床板が広いです」
「褒めてないだろ、それ」
「褒めています」
「どこがだ」
「床板は、いちばん丈夫です」
「壊れないほうへ回されただけじゃないか」
「そうです」
即答だった。
床板の震えは、そのあいだも続いている。低くて、遅い。
充実度38%。
……三人だぞ。二人きりですらないんだが。
荷のほうへ目を移す。
一箇所だけ、どの順にも入らないところがある。
いまは、そこに、何も入っていない。
懐へ手をやった。
中で、もう音がしない。乗っているあいだは、しないものらしい。
糸の切れた振り子を出した。
膝の上で、光の当たる面のほうへ寄せる。糸は根元のところで切れている。切れた端は、どちらも指で挟めるくらいの長さがある。
「直してやる」
背中は動かない。返事もない。
言い直しはしなかった。返事の要る話でもない。
俺は糸の端を、指の腹で探した。細いものは、見えているのに、触ると分からなくなる。
端と端を合わせて、結ぶ。それだけの話だった。
持った。
結ぼうとした。
切れた。
力を入れた覚えがない。指を寄せただけだ。それで、さっきより短くなった。
短くなったぶんは、膝の上のどこかへ行った。探さなかった。
二度目は試さなかった。
「……見てたわよ、いまの」
白猫は伸びた姿勢のまま言った。顔もこちらへ向けない。
充実度35%。
……効いた。効くなよ、そこは。
人類最強の体なのだそうだ。その指が、細い糸に負ける。
膝の上に、さっきより短い糸がある。それだけになった。
リゼの手が、うしろへ来た。何も言わない。指だけが動いて、開いた。
俺はそこへ振り子を渡した。
受け取った手は、そのまま行った。
リゼは直さない。糸を合わせもしない。
糸が切れたまま、どの順にも入らないところへ、戻した。
戻したあと、その手はすぐ手綱へ帰った。
「なんで、直さないんだ」
リゼが幌の隙間から外のほうへ目を向けた。
「……ミツルさん」
「あれは、直せます」
こちらは見ない。背中だけが明るいほうにある。
手綱は握ったままだった。声の出どころは、いつもと同じ高さにある。
「私が、糸を切りました」
俺は何も言えなかった。
息だけが出て、あとは何も出てこない。
振り子は、もう俺の手にない。荷のほうにある。そこへ目をやっても、どこにあるのかは分からなかった。
布の目から落ちた光の面が、リゼの背中の左のほうまで来ている。座り方も、声の高さも、さっきまでと同じだった。
「……あー。その話、私、代休なんだけど」
言うだけ言って、白猫は丸くなった。
荷の上で体を小さくして、耳も伏せた。返事の来ない格好だった。
リゼは構わなかった。
「工房が無くなってから、一度だけ、兄の呪いに、手を入れました」
声は淡々としている。速くもならない。
俺は膝の上で指を組んだ。組んだところで、何も変わらない。
「届かないと、思っていました」
床板が震えている。低い。遅い。
「私の手のほうが、届きました」
そこで、言葉が短くなった。短くなったところで、切れもしなかった。
「それで、深くなりました」
次が出てくるまでに、床板が何度か震えた。
荷は動かない。締めてあるから、震えても、そこから動かない。
動いていないものだらけの中で、リゼの声だけが揺れなかった。
「もとは、呼べば、瞬きくらいはありました」
「いまは、しません」
俺は膝を立てたまま座っている。体のどこも動かなかった。
幌の中は狭い。狭いのに、リゼの背中が、さっきより向こうにある。
「あれは、そのときに持っていたものです」
どの順にも入らないところが、リゼの手の先にある。
「それから、兄の呪いには、手を入れていません」
言い終わるまで、背中は一度も形を変えなかった。
そこで終わりだった。続きが無い。
訊きたいことが思いついた。
兄が、いまどこにいるのか。
その人を、いま誰が見ているのか。
なぜ、二度目をやらないのか。
どれも、口の中までは来た。
どの順にも入らないところへ、目をやった。
「……糸くらい、どこかで買えるだろ」
「買いません」
理由は付かなかった。リゼは手綱を握り直して、前を向いた。
背中の位置も、さっきと同じところへ帰っていた。
充実度56%。
……いま上がるのかよ。
床板の震えは、話しているあいだ、一度も止まらなかった。
そのあと、誰も喋らなかった。
光の当たる面が、床板の上を少しずつ移っていった。移りきって、細くなって、それから見えなくなった。
震えだけが残った。低くて、遅い。ずっと同じ拍だった。
そこで、荷馬車が止まった。
白猫は丸くなったままだ。目も開けない。
……こいつ、代休のままだな。
跨いで、外へ出た。
日が暮れかけていた。空の低いところが明るくて、上のほうは暗い。
幌の中では分からなかったものが、出た途端に分かる。一日が、もう終わりかけている。
膝が伸びない。立てたまま座っていたぶん、伸ばすのに時間がかかった。伸ばしきってから、二、三歩ぶん歩いた。
体の下から来ていた震えが、無くなっている。足の裏が硬い。
リゼは先に降りていて、荷を締め直しはじめた。
順序は乱れていない。壊れやすいものが先で、いちばん下に入るものが最後。手つきも、いつもと変わらない。
布を引いて、締めて、指を滑らせて、次へ行く。同じ速さで、端から端まで行く。
俺は何もしなかった。
充実度58%。今日、俺は、座っていただけだ。
道は、一本しかなかった。
リゼが、荷の同じところを、二度、触った。
「……これ、入れたか」




