ep052「掛かっているものしか持っていかない男に、掛かっていない俺のほうから飛び込んだ」
戸が、開いたままだった。
閉めた音を、俺は聞いていない。
壁には、釘が二本。どちらにも、何も掛かっていない。
掛かっていないものは、俺が持っている。
壁に短い影が二本ならんでいる。日が高くなるぶんだけ、少しずつ詰まってきた。
その下の四角い跡は、そこだけ色が違う。隣の家にもある。その隣にもある。
充実度22%。
通りには人が出ていた。桶を提げた男が家のあいだを抜けていって、子どもが横を走っていく。
誰も顔を上げない。戸口の前に立っている俺たちへ目を向ける者が一人もいない。
真ん中のあたりで、人の歩く筋が一本だけずれていた。
上着は袖だけのままだ。荷馬車は通りの端に寄せてある。リゼはその脇に立っていた。
開いたままの戸口から、アデルが出てきた。
中は暗い。戸は、そのままにしてある。
「おはようございます」
明るい声だった。
手は、出さなかった。
差し出しもしない。うしろへ回しもしない。両手とも体の横にあった。
返してくれ、とは言わなかった。
言い直しもしない。催促もしない。おはようございます、の続きが無かった。
俺は掌のほうへ指を動かしかけた。
そこで止まった。
腕がそこから先へ動かない。指も開かない。アデルのほうへ一歩も出ない。
俺の手は腰の高さより少し上にあった。そこから戸口までは三歩ある。
三歩のうち、一歩も減らなかった。
アデルの足は動かない。爪先の向きも変わらない。近づきもしないし、退がりもしない。
アデルは戸口に立ったままだった。俺の手のほうも見ない。壁のほうも見ない。
充実度14%。
……怒れよ、そこは。
「……あら、下がってる。朝から働き者ねえ、その呪い」
白猫が荷台の縁で座り直した。
通りの向こうから、男が歩いて来た。
誰も顔を上げなかった。俺たちにも上げない。その男にも上げない。
子どもが男の横をすり抜けて走っていった。桶の男は道の端へ寄って、そのまま行った。
男は真ん中のずれた筋の上を普通に歩いてきて、俺のところで足を止めた。
手ぶらに見える。提げているものも、抱えているものもない。
今日は、壁を見た。
釘が二本。どちらにも何も掛かっていない。二本とも空いている。
男はそれをしばらく見ていた。目だけを動かして、一本、もう一本と見た。
それから、俺の手を見た。
顔ではない。手のほうだった。
そして、手を伸ばしてきた。
俺の掌へ、まっすぐ。
速くはない。掴みにくる速さではなかった。
開いた手が俺の手の甲のところまで来て、そこで止まった。
指の先と俺の指の先とのあいだが、指一本ぶんも無い。
手の甲に日が当たらなくなった。
俺は指をたたんだ。
握った。
男は、それ以上しなかった。
掴みもしない。こじ開けにも来ない。伸ばした手を、そのまま引いた。
一拍、動かなかった。
目は俺の手のところにあった。顔のほうへは来ない。まばたきもしない。
肩のところが一度だけ動いて、それきり動かなくなった。
通りの人はまだ歩いている。子どもが二度、俺たちの横を行き来した。
男はそのあいだ、同じ形で立っていた。
そして、自分の掌を、一度だけ見た。
開いたままの手を目の高さまで持っていって、そこで見た。それだけだった。
指を曲げてみもしない。裏返しもしない。ただ、開いたところを見ていた。
何も言わなかった。
男が歩き出した。速さは来たときと変わらない。
俺の横を抜けて、通りをそのまま行った。
そして、行かなかった。
通りの先で、立ち止まった。
振り返らない。こちらを見張るでもない。ただ、立っている。
視界の端で、リゼが動いた。
俺と、通りの先とのあいだに入った。
背中しか見えない。口は開かない。何も訊かない。
充実度20%。
……いや、下がれって。
「……上がるのねえ、そこ」
白猫は荷台の縁から動かなかった。
通りの先で、男は立ったままだった。
娘は戸口にいる。リゼは俺の前にいる。白猫は荷台の縁にいる。
俺は壁のほうを向いた。
釘に指をかけた。
指の腹に当たったところは日に温まっていた。
抜けた。
体の向きを変えて、もう一本にも指をかけた。それも抜けた。
思ったより、何の手応えもなかった。
力を入れた覚えもない。壁のほうが先に諦めたみたいだった。
壁に穴が二つ残った。
四角い跡は色が違うだけだが、穴はそこだけ暗い。日の当たっている面に、そこだけ日の入らないところが二つある。
アデルは止めなかった。声も上げない。訊きもしない。
……俺、他人の家の壁に穴開けたな。
それから、掌の中のものを、戸口へ持っていった。
もう一つの隣に、掛けた。
二つが同じ高さになった。
掛けてから、もう一度、指をかけた。曲がっていないかだけ確かめて、離した。
そして、手で、一度だけ、打ち合わせた。
腕は振らない。手首だけで、一度。
こつ、と鳴った。
小さくて、乾いた音だった。
通りのほうがよほど大きい。三歩離れたら、もう聞こえない。
俺はアデルのほうを見た。
「……」
声が、出てこない。
ずっと同じだった声が、そこで初めて止まった。
口だけが、開いたところで動かなくなっている。
それから、アデルが動いた。
一歩で来た。戸口から出て、俺の正面に立った。
俺の手を、両手で取った。
下から支えるみたいな取り方だった。指を掛けもしない。押さえもしない。ただ、手の下に手があった。
温かい。
俺の手のほうが大きくて、指の長さも余っている。それでも、下から二つで支えられている。
動かない。持ち直しもしない。
俺は引こうとした。
引けなかった。
力ずくなら引ける。壁の釘が抜けた手だ。
それでも、動かなかった。
引けないと分かってから、そのまま固まった。
息を吸ったところで止まっていた。吐くほうを忘れている。
自分の脈が、手のところにあるのが分かった。数えられるような速さではない。
壁の影が、さっきより少し詰まっていた。
通りの人はまだ歩いている。誰も顔を上げない。
アデルは少し下を見た。それから顔を上げた。
「……お名前を、まだ、聞いていません」
充実度98%。
……いや、名乗る前に爆ぜたら、ただの不審者だろ!
「――ミツルだ」
アデルが、手を離した。
自分から離した。
両方ともいっぺんに離れて、温かいところだけが残った。
俺は走った。
戸口から離れる向きへ。通りの先へ。
男はまだ立っていた。逃げない。構えない。戸口のほうも見ない。一歩も動かなかった。
「――爆ぜろ、俺」
充実度100%。
どん、と来た。
充実度0%。
煙が通りを横切って流れていった。
その向こうに、散らばっているものがあった。
男は二度転がってから止まった。
白目をむいている。起き上がってこない。
男のところから、この町ぜんぶのものがこぼれて、散らばっていた。
二つ、三つ、それからいくつも。通りの端まで届いている。
戸は一つも開かなかった。
誰も出てこない。顔も出さない。
人の歩く筋は、まだ一本だけずれたままだった。
リゼが拾いはじめた。
一つずつだった。腰をかがめて、拾って、荷馬車のほうへ運ぶ。それを何度も繰り返した。
荷台へ積んでいく。並べ方を直しもしない。ただ積んだ。
一つだけ、積まなかった。
手に持ったまま荷台の前で足を止めた。積む向きに手が動きかけて、そこで戻った。
通りを戻って、戸口の下に、置いた。
かがみ方は拾うときより深かった。膝を折って、指を離すところまでゆっくりだった。
置いてから、指を少し浮かせたまま、動かさなかった。
それから、そのまま荷馬車へ帰っていった。何も言わない。
俺の目は、そこにしばらく残った。
置いてあるだけだ。それ以上は分からない。
「……リゼちゃん。こういうの、引き継ぎって言うのよ、うちの職場だと」
……なんで俺じゃなくてリゼに言うんだよ。
アデルが戸口に立っていた。
手ぶらだった。戸口の下のものへは、手を出さない。
俺のほうを見ている。
「……いってらっしゃい」
俺は頷いた。
リゼが荷馬車を出した。白猫が荷台の縁に乗り直した。
俺の手には、何も無かった。
三人で町を出た。
うしろで、こつ、と鳴った。
振り返らなかった。
「……ミツルさん。荷が、増えました」
充実度24%。
「……あれ、俺のじゃなかったな」




