ep051「返してくれと言われて返さず、これは俺のだと嘘をついた」
壁に、釘が二本になっていた。
一本は、前からある。
もう一本は、頭だけが光っている。
打った者は、壁を一度だけ掌でなでてから、金槌を持ったまま、何も言わずに帰っていった。
戸を叩きもしない。声もかけない。振り返らずに、金槌を提げた手をそのままにして、二軒先の家のほうへ歩いていった。
四角い跡の隣に、一本。そのまた隣に、もう一本。
俺は数えた。二本。何度見ても二本だ。
釘の頭を、日が白く光らせている。前からあるほうは、光らない。
壁に短い影が二本ならんでいる。日が高くなるぶんだけ、少しずつ詰まってきた。
その下の四角い跡に日が当たって、そこだけ色が違うのがいちばんはっきり見えた。隣の家にもある。その隣にもある。高さは家ごとにばらばらだ。
充実度10%。
通りには人が出ていた。桶を提げた男がうしろを抜けていって、子どもが家と家のあいだを走っていく。話し声はいくつも続いていて、そのどれもこちらへは向かない。
真ん中のあたりで、人の歩く筋が一本だけずれていた。
誰も顔を上げない。戸口の前に立っている俺たちのほうへ、目を向ける者が一人もいなかった。
充実度6%。
……いや、なんで俺、他人の家の壁を見張ってんだ。
「……6。まだ何も起きてないのに6。まあ、静かでいいわねえ」
荷台の縁で白猫が座り直した。
荷馬車は通りの端に寄せたままだ。上着は袖だけになっていて、前を合わせようにも合わせるものがない。リゼは荷馬車の脇にいた。
戸が、開かない。
内側で何かを動かす音がしていた。止まって、また動いて、しばらくして、また止まる。探している音だった。
戸の前で待っているのは、俺たちだけだった。
だいぶ経ってから、戸が開いた。
「おはようございます」
アデルが出てきた。明るい声だった。
手は、後ろに回っていた。
そのまま戸口に立った。
通りの向こうから、男が歩いて来た。
誰も顔を上げなかった。俺たちにも上げない。その男にも上げない。桶が横を通りすぎて、子どもの声が家のあいだで跳ねた。よそから来た者を見る目つきが、通りに一つもない。
男が抜けていくところだけ、話し声が途切れた。抜けたあとで、また続いた。
真ん中のずれた筋の上を、男は普通に歩いていた。
男は壁を見なかった。
釘を見ない。四角い跡も見ない。戸のほうへも目を向けなかった。
アデルは戸口に立ったままだった。手は、まだ後ろにある。
男は、その戸口のほうへは寄らなかった。
そして、俺の前で足を止めた。
手ぶらに見える。提げているものも、抱えているものもない。両手とも空いている。
「掛かっているものしか、持っていかない」
声は平らだった。大きくも小さくもない。
「……は?」
俺は壁のほうを見た。釘が二本。どちらにも何も掛かっていない。
男は説明しなかった。言い方を変えもしない。訊き返す間を待ってもいない。
「今日は、掛かっていない」
……いや、そういう話じゃなくてだな。
言い返す言葉が、そこから先へ出てこなかった。
男の目は、俺の顔から動かない。驚きも、惜しがりも、急ぐ様子もなかった。俺の前で足を止めて、俺の顔を見て、それだけだった。
男が歩き出した。速さは来たときと変わらない。壁のほうへは、とうとう一度も顔を向けなかった。
俺は男の前に立ったままだった。よけられもしなかった。
視界の端で、リゼが一歩下がった。口は開かない。
俺も、その背中に何も言えなかった。
通りの向こうから、誰かがアデルに声をかけた。
「……早いほうが、楽よ」
責める調子ではない。急かしてもいない。
「はい」
アデルが戸口で体をそちらへ向けて、明るく返事をした。
声をかけたほうは、そのまま自分の家のほうへ行った。こちらは一度も見ない。
俺には、一言もなかった。
充実度4%。
「……4。ちまちま減るわねえ」
男の背中が、通りの人にまぎれて見えなくなった。
しばらく、誰も何もしなかった。
それからアデルが手を前に戻した。
そして、釘に掛けた。
背伸びもしない。目も閉じない。戸を開けるのと同じ手つきだった。二本のうちの片方に掛けた。
掛けてから、もう一度だけ指をかけて、動かないのを確かめた。
アデルの指は掛けたところに触れたまま、少しのあいだ止まっていた。それから離して、掛かっているところを見た。
掛けるあいだ、アデルは一度もこちらを気にしなかった。
日がいちばん高いところにあった。壁の影は、指の幅ほどしかない。
気がついたら、壁に手が届いていた。
俺は、両手でそれを外した。
外して、掌の中を見てしまった。
見るつもりはなかった。外したはずみで、目のほうが先に入った。
そこから、手が動かなくなった。
指も、腕も、肩も。外したときの高さのまま、どこも動かない。
アデルは取り返そうとしなかった。声も上げなかった。俺の掌のほうを見ていた。
通りでは、まだ話し声が続いている。子どもが走っていって、器のぶつかる音がして、誰かが誰かを呼んだ。どこかの家の内から笑い声もした。
このあたりだけ、何も動いていない。
誰かが通りをこちらへ歩いてきて、外へ寄って、そのまま行った。
日が壁の上を少しだけ移った。影の詰まり方が、さっきと変わっている。
俺の腕は外したときの高さで止まったままだ。肘のあたりが、そのうち痛くなってきた。
掌の中のものは、掌の中にある。それ以上のことは何も起きない。
アデルは、掛かっていたところを一度だけ見た。それから俺の手のほうへ目を戻した。
どれくらいそうしていたのか、分からない。
……いや、待て。俺、今、何やった。
「……返してもらえますか」
明るい声だった。
アデルは掌を上に向けて、俺のほうへ差し出していた。急かさない。言い直さない。手は水平のまま、そこで止まっている。
俺はその手を見た。それから自分の掌を見た。
どちらの手も、動かない。
俺は、返さなかった。
握り込むでもない。うしろへ回すでもない。ただ、外したときの形のままだった。
白猫は荷台の縁でこちらを見ている。何も言わない。リゼも何も言わなかった。
掌の中のものを見たまま、俺は口を開いた。
「……あのさ。俺、一個だけ、誰にも言ってないことがあるんだけど」
「言えなかった、っていうか。言う相手がいなかったのが先で、そのうち言わないほうが普通になってた」
「長いこと黙ってると、そのうち無かったことみたいになるんだよ。こっちにだけ、ずっと残ってるのにさ」
「べつに大した話じゃない。人に言うほどのことでもないんだ。ないんだけど」
「……まあ、そういうのが、ある」
言いながら掌の中を見ていた。顔は上げなかった。
アデルは何も訊かなかった。
待っていた。俺が喋りだしても、待つのをやめなかった。
喋り終わったところへ、数字のほうが先に入ってきた。
充実度3%。
一つぶんだけ動いていた。
「……1?」
「……あら、1。がんばったのにねえ」
白猫が荷台の縁で尻尾を一度振った。
「……私も昔ね、ひとつだけ、処理を間違えたことがあるのよ。ええ、些細なこと。ほんとに些細な」
「それ以来ずっと、再発防止に努めてるわけ」
「……なんで急に自分の話すんだよ」
「あら、話の流れでしょう」
白猫は前脚をなめて、それからまた喋りだした。誰も止めなかった。リゼも口を挟まない。
アデルは手を出したまま黙って聞いていた。急かさない。相槌も打たない。掌は、さっきの高さのままだ。
白猫のほうを見て、それからまた俺のほうへ目を戻した。手は動かない。
通りには、まだ人が出ている。誰もこちらを見ない。
町のどこかで話し声が続いている。ここだけが静かだった。
釘の影が壁を横へ伸びていた。指の幅ほどだったのが、掌ぶんはある。二本とも同じだけ伸びている。
影は、俺の足のところまで来ていた。
リゼが、アデルのほうを向いた。
通りにも届く声だった。
「……無くなっていません。また、できています」
「……はい」
アデルはリゼのほうを見て、それだけ言った。
驚かなかった。訊き返しもしない。
リゼはそれきり続きを言わなかった。一歩も動かない。
アデルは戸口に立ったままだった。戸を、閉めなかった。
戸口の内は暗いままだ。
そして、手を下ろした。
「……あれ、わたしが、掛けたんです」
明るい声だった。ずっと、同じ声だ。
充実度22%。
「――これは、俺のだ」




