ep050「どこから来たのか答えられないまま、町なかで爆ぜた」
こつ、と鳴った。
こつ。こつ、こつ。
目を開けると、町じゅうで鳴っていた。
――一軒だけ、昨日と同じで、鳴らなかった。
どの戸口でも、二つ下がった木の片が打ち合っている。開くたび、こつ。閉まるたび、こつ。通りの端から端まで、鳴る間がほとんど空かない。
器のぶつかる音がする。子どもの声もする。話し声はあちこちで続いていて、そのどれもこちらへは向かない。
壁の四角い跡に日が当たっていた。そこだけ色が違うのが、いちばんはっきり見える。隣の家にもある。その隣にもある。高さは家ごとにばらばらだった。
荷馬車は通りの端に寄せたままだ。焦げた上着の前を合わせる。リゼは荷馬車の脇に立って、通りのほうを見ていた。
鳴らない戸が開いて、アデルが出てきた。
「おはようございます」
明るい声だった。それから、食べるものを三人分、俺たちの前に並べた。
「どうぞ」
断る理由が、こっちには一つもない。あったとしても、腹のほうが先に返事をしていた。
目を開けたときは2%だった。
いまは20%。
「……あら。20。朝から20。いいわねえ、始末書もの」
荷台の縁で白猫が伸びをした。
……いや、なかったことになってないか、これ。
通りの向こうから、男が歩いて来た。
誰も顔を上げなかった。
俺たちにも上げない。その男にも上げない。桶を提げた女が横を抜けていって、子どもが家と家のあいだを走っていった。よそから来た者を見る目つきが、通りに一つもなかった。
男が通ったあとだけ、戸の音が消えた。鳴っているのは、ずっと後ろと、ずっと前のほうだけだ。
手ぶらに見えた。提げているものも、抱えているものもない。両手とも空いている。
「20のまま。まだ20。動かないわねえ」
男が、一軒の壁の前で足を止めた。片手を伸ばして、掛かっていたものを壁から外した。
外した瞬間には、もう見ていなかった。確かめもしない。眺めもしない。手が壁から離れるより先に、目のほうが次の家へ移っていた。
戸が半分だけ開いて、なかから顔が出た。
「楽になりました」
それだけだった。引き止めもしないし、見送りもしない。戸はすぐ閉まって、こつ、と一つ鳴った。
……礼、言うんだ。
外したところに、四角い跡が残っていた。ほかの家のより、色の差がはっきりしている。新しい。
俺は口を開きかけて、そのまま閉じた。
声が上がらない。取り上げられた家からも、隣からも、通りのどこからも。足のほうも動かなかった。
男が、俺たちの前を通った。
目は前を向いたままだ。顔をこちらへ向けない。歩く速さも変わらない。
「あんたのは、持っていけない」
通りすがりに、それだけだった。声は平らで、大きくも小さくもない。
言い終わったときには、もう次の一歩を踏んでいた。
「……何の話だよ」
返事はなかった。
リゼが一歩前に出た。
目が輝いていた。呪いの話になると、いつもこうだ。
「物に結晶した呪いは物ごと運べます、ですがミツルさんのは――」
息を継いでいない。指が自分の袖を掴んでいた。
「おい」
リゼは口を閉じた。
それきり、何も言わなかった。
「……17。三つ下がったわ。はい、17ねえ」
さっきから、動くたびに読み上げてくる。
男は、あの鳴らない戸のほうへ歩いて行った。
俺たちは朝からその戸の前にいる。動いたのは、男のほうだった。
壁に四角い跡がある。そこだけ色が違う。
その隣に、釘が一本。何も掛かっていない。
男は、それを見た。
それから、戸を見た。
娘のほうは、見なかった。
戸が開いた。
アデルが、少しだけ体をどけた。
何かを手渡す仕草ではなかった。まだ、そこには何も掛かっていない。
「……はい」
声は明るいままだった。下を向きもしない。
俺の手が動いていた。
男の腕を掴んでいた。
男は抵抗しなかった。振り払いもしない。こちらを見もしない。掴まれた腕をそのままにして、言った。
「離せとは言わない。だが、離しても、俺は同じことをする」
通りの音が、少し遠くなった。
俺は、離した。
男の袖には、掴んだところだけ布の皺が残っていた。
男が、戸のほうへ体を向ける。
「その人は、悪くありません」
アデルの声だった。
俺に向かってでも、男に向かってでもない。通りに向かって、はっきりと言った。
「56! 56よ、ミツルくん。ちょっと、跳ねすぎじゃない?」
白猫が荷台の縁で身を起こした。
顔が、上がった。
一つ。
二つ。
戸口から。窓の内から。通りの端から。
こちらへ向いた声が一つもなかった町で、通りぜんぶが、俺を見ていた。
桶を提げた女も止まっている。子どもも止まっている。
「98。……98。ミツルくん、98だわ」
そのなかの一人が、口を開いた。
「……あんた、どっから来たんだ」
……いや、それ、俺がいちばん答えられないやつ!
「ミツルくん、下げなさ――」
俺は走った。
通りの真ん中へ、三歩、四歩。戸口からも、家の前からも、離れたところへ。
振り返ると、男が一歩こちらへ来ていた。
口を開いた。
「……いや、どこって――」
息を吸った。
充実度100%。
ドン、と通りが白くなった。
煙のなかで、何かが転がる音がした。
一つではない。いくつも。
男の手から、こぼれていた。
二度転がって、止まる。また二度転がって、止まる。
散らばって、そこで並んだ。
男は少し先まで転がって、それから起き上がった。
起き上がってすぐ、しゃがんだ。
両手だった。
掌に載せて、抱えて、また拾う。一つ拾うたびに、通りへ目を走らせる。片手では足りていなかった。
慌てていた。
この男が急いだのを見たのは、そのときが初めてだった。
俺の上着は袖だけになっていた。脇の縫い目のところで裂けて、その先がない。外套のほうは焦げてもいなかった。
拾い終えると、慌てていた顔つきはもうなかった。
それから、初めて俺の顔を見た。
「惜しいな」
白猫は何も言わなかった。
男が背を向けた。
リゼが、その背中を見ていた。
間が空いてから、白猫が思い出したみたいに口を開いた。
「……0ね。0のまま。ちゃんと0」
誰も俺を呼ばなかった。見てはいた。それだけだった。
「また来る」
いつ、とは言わなかった。
戸が、いっせいに鳴った。鳴らない戸が一つだけ開いて、朝と同じものが、また三人分、俺たちの前に並んだ。
充実度10%。
「……やらねえよ」




