ep049「勝手に充実度が下がる町に着いたが、俺は一つだけ訊いてしまった」
「――おい。リゼ」
俺が呼んだとき、リゼは答えなかった。
答えが返ってきたのは、町の入り口に立ってからだった。
「……コルヴォ、といいます」
なんで知ってるんだ、とは訊かなかった。
平らな町だった。屋根の高さがどれも似ていて、目を上げても遮るものがない。荷馬車を通りの端へ寄せて止める。焦げたままの上着の前を合わせた。町に入るのだから、脱いでおくわけにもいかない。
通りは広くも狭くもない。軒先が同じ間隔で並んでいて、どこまで続いても同じ幅のままだった。
人はいた。桶を提げた女が横切っていって、子どもが二人で家と家のあいだを抜けていった。どこかで水を使う音がする。器のぶつかる音もする。
暮らしの音だけは、ちゃんとあった。
どの戸口にも、小さな木の片が二つ下がっていた。開け閉てのたびに打ち合って、こつ、と鳴る。
戸が開くたび、こつ。閉まるたび、こつ。
あちこちで鳴っていた。
誰も顔を上げなかった。
名を訊かれない。どこから来たとも訊かれない。すぐ横を男が通って戸を開けて、こつ、と鳴らして、そのまま入っていった。俺のほうは見なかった。
話し声はする。戸口でも窓の内でも。ただ、こちらへ向いた声が一つもない。
桶の女がもう一度通った。今度も横を抜けていった。
立っているのに、立っていないみたいだった。
「……ねえミツルくん。あの屋根、あったかそうじゃない?」
荷台の縁で、白猫が伸びをした。
「見てるとこ、そこかよ」
「だってあの家の屋根、いちばん平らだもの」
「転がる前提で選ぶな」
「私、寝相はいいのよ」
「じゃあ平らじゃなくていいだろ」
白猫は返事をせずに、前脚を舐めた。
町の入り口で見たとき、充実度は51%だった。
いまは38%。
……下がってる。ラッキーだな、ここ。
こつ、とまた鳴った。少し離れた戸口でも、こつ、と鳴った。
鳴る間が、まばらになってきた。
壁に、四角い跡があった。
そこだけ色が違う。隣の家にもあった。その隣にもあった。高さは家ごとに違っている。
大きいのもあれば、掌ほどのもある。縦に細長いのが一つ。縁の丸いのが一つ。
一軒は壁の下のほうに一つきり。別の一軒は、戸のすぐ横に二つ並んでいた。二つのうち片方だけが小さい。
まわりの壁だけが色を落としていて、跡のところは古びていない。
戸口で誰かと誰かが立ち話をしていた。
「――ああ。おたくも」
「ええ。楽になりましたので」
何が、とは言わなかった。二軒ばかり離れた戸口でも、別の口から同じ言い方を聞いた。
どちらの声も、こちらへは向かない。
俺は荷馬車のほうへ目を戻した。荷台の縁に手を置いて、そのまま置いておいた。聞こえた言葉は通りのほかの音に混ざって、どこかへ行った。
リゼが荷馬車の幌に手をかけて、そのまま手を離した。
荷は一つも降りない。
横顔を一度だけ見た。リゼはまっすぐ通りを見ていて、こちらへは向かなかった。
幌は下ろされないままだった。
……いや、ここ、俺たちの用がないだろ。
「……有給って、こういうときに使うものだと思うのよねえ」
「おまえ、いつ働いたんだよ」
充実度24%。
通りの奥に、一軒だけ違う戸があった。
木の片が、一つしかない。
その戸が開いて、娘が出てきた。音は鳴らなかった。
「うち、鳴らないんです」
娘は残ったほうの木の片を指でつまんで、それから笑った。
「一つしかないので」
「……そうか」
「楽になりました」
明るい声だった。
「アデルです」
返す言葉が、すぐには出なかった。口を開きかけて、そのまま閉じた。
名乗られたのは、この町で初めてだった。
こっちも名乗ろうとして、やめた。誰にも訊かれていない。
アデルの家の壁にも、四角い跡が一つあった。そこだけ色が違う。
リゼが、その跡の縁を指でなぞった。指はそこへ置いたままだった。
それから、俺にだけ聞こえる声で言った。
「……解けていません。無くなっています」
続きがあるかと思ったが、それきりだった。
リゼは指を跡に置いたまま、口を閉じていた。
戸の音が、ほとんど鳴らなくなった。
間が空いて、一つ鳴って、また間が空いた。
俺たちはまだ、その戸の前にいた。
アデルは一つきりの木の片を指で押していた。押しても、何にも当たらない。
押して、離して、また押した。
音はしない。指の下で木の片が少し傾ぐだけだった。
俺は訊いた。
「なくなって、よかったのか」
言ってから、自分で少し驚いた。
訊くつもりはなかった。口のほうが勝手に動いていた。
話し声が、止んだ。
戸口の向こうでも、窓の内でも。さっきまで途切れずにあったものが、そこだけ抜けた。
戸の音はまだときどき鳴る。水を使う音も続いている。無くなったのは声だけだった。
桶を提げた女が通りの真ん中で立ち止まっていた。こちらは見ていない。
誰も出てこなかった。こちらへ顔を向ける者も一人もいない。
誰も怒らなかった。誰も俺を責めなかった。ただ、誰も、何も言わなかった。
……この町、愛想ってもんがないな。
アデルはまだ笑っていた。笑ったまま、何も言わなかった。
リゼが跡から指を離して、一歩だけ下がった。
フェリシアは何も言わない。
荷台で丸くなったまま、耳だけがこちらを向いていた。尻尾の先も止まっている。
「……なんで黙ってんだよ」
白猫は尻尾を一度だけ動かした。
それだけだった。
アデルが下を向いた。
木の片から指が離れた。
「……返してほしいんです」
小さい声だった。一度だけだった。
「……すみま」
言いかけて、やめた。
アデルは顔を上げない。リゼは下がったところに立っている。白猫も丸まったままだった。
俺は何も言えなかった。
充実度2%。
アデルが、戸に手をかけた。
戸の音は、もう一つも鳴らない。
開く戸も、閉まる戸もなかった。
どの家も閉じたあとだった。通りに立っているのは俺たち三人と、戸に手をかけたアデルだけになった。
こつ、と鳴る音がどこからもしなくなった。
あちこちで鳴っていたものがまばらになって、それきりになった。窓の内の話し声も戻らない。残っているのは、遠くで水を使う音だけだった。
窓の内に人の気配はあるのに、こちらへ出てくる戸は一つもない。
白猫は荷台の縁に前脚をかけて、通りのほうを見ていた。
リゼは何も言わない。フェリシアも言わない。俺も、言うことがなかった。
目の置きどころがなかった。
アデルの家の壁を、もう一度見た。
目を上から下へ動かして、途中で止めた。
四角い跡がある。そこだけ色が違う。
跡のなかは平らだった。何も残っていない。
跡の縁を目でなぞった。さっきリゼの指が置かれていたところだった。
アデルは戸に手をかけたまま、まだ開けなかった。
戸に下がった木の片が、手の動きで少しだけ揺れた。当たるものはない。
息を吸って、吐いた。それだけの間があった。
アデルが顔を上げた。
目が跡の縁から横へ滑って、そこで止まった。
四角い跡の、その隣に、釘が一本。何も掛かっていない。
「……訊いてくれて、ありがとうございました」
戸が閉まる。木の片は一つだけで、音は鳴らなかった。
充実度2%。――動かない。
「……上がれよ」




