ep048「行き先も決めずに歩きながら、追い越していった旅人に手を振った」
行き先を、まだ誰も言っていない。
それでも、足は動いている。
かちり、と懐で鳴った。糸の切れたものが、歩くたびに鳴る。
爪先に、乾いた土がついている。歩いても、落ちない。
影は、前に長い。三人ぶんが、道の先へ細く伸びている。
空気はまだ冷たくて、息を吸うと喉の奥が少しだけ痛い。光は横から来ている。道の面のでこぼこが、一つずつ影をつけて見えた。
荷馬車には、誰も乗っていない。
先を行くのはリゼだ。荷馬車は、そのあとをついてくる。俺はさらにその後ろにいて、白猫は肩に乗っていない。自分の足で、いちばん後ろから来ている。
車輪は乾いた土をつぶしながら回る。ぎ、と一度きしんで、それきり黙る。しばらくしてまた、ぎ、と鳴った。
俺とリゼのあいだが五歩ぶん。俺と猫のあいだが三歩ぶん。どちらもさっきから、伸びも縮みもしない。
車輪は、俺が歩くのとほとんど同じ速さで回っていた。
「……荷、減ってませんので」
前を向いたまま、それだけ言った。幌の下は、まだふくらんでいる。出たときの形のままだ。
俺の上着も、その中にある。背中が焦げて、袖の片方が短くなっているやつだ。新しいのを買う話は、誰もしない。
シャツ一枚で歩いていると、肩がやけに軽い。肩から先が、直に外へ出ている感じがする。
「……次に焦げたら、袖だけになります」
これも、前を向いたままだった。
……袖だけの上着って、それはもう上着じゃないだろ。
道は、行っても行っても同じだった。両側が乾いていて、先のほうだけが白っぽい。
リゼの背中は、荷馬車より半分ぶんだけ先にある。その半分は、さっきからずっと縮まらない。
俺の一歩は、リゼの一歩より半端に遅れて出る。猫の足音にいたっては、そもそも数が合わない。
三つの足音が、そろわないまま道に落ちていく。かちり、はそのどれとも合わない。
後ろから、のんびりした声が来た。
「……ミツルくん、数字、動いてるわよぉ」
充実度7%が、18%になっている。
……歩数か? 歩数で上がるのか、これ。
だとしたら、ずいぶん雑な呪いだ。
三人ぶんの影が、少しずつ短くなっていった。
影が足の下に来るころ、後ろから抗議が来た。
「ちょっとぉ。ミツルくん、私、脚が短いのよ。これ、労働条件の話していい?」
「……訴える先、あるのか」
「ないわねえ。強いて言うなら、私のところかしら」
「じゃあ自分で自分に出すのかよ」
「出したわよぉ。さっき。却下されたわ」
「……仕事が早いな」
猫の脚は、たしかに短い。乾いた土に、小さい足跡が四つずつ並んでいく。
半歩ぶん、歩幅を縮めた。
踵を下ろす位置を、ほんの少し手前にする。
それから、もう半歩。
誰にも言わなかったし、誰も気づかなかった。
そこからは、何でもない話が続いた。猫が言って、俺が返して、また猫が言う。前の背中が、ときどきほんの少しだけこっちへ傾く。
何を喋ったかは、あとで思い出せない。
覚えているのは、道の乾いた匂いと、自分の声が思ったより高かったことくらいだ。
後ろから、足音が来た。
足音は近づいて、俺の横に並んだ。
旅の格好の誰かが、横に並んで、前へ出て、遠ざかっていく。道の幅はじゅうぶんにあって、よけるほどのことでもなかった。
俺は、反射で手を振っていた。
知り合いでもない。顔も見ていない。腕のほうが勝手だった。
相手は何も返さなかった。
振った手を、そのまま下ろす。下ろした手のひらが、少しのあいだ熱かった。
「……ふぅん。まだ上がるのねえ、それ」
充実度29%。
足の下にあった影が、いつのまにか後ろへ伸びはじめていた。
影が、後ろに長い。
景色は変わらない。歩いても歩いても、道の両側は同じ具合に乾いていて、先のほうだけが白っぽい。
ふくらはぎが張ってきている。足の裏の同じところばかりが、さっきから鈍く痛む。
懐の音には、もう慣れていた。歩けば鳴る。鳴っているあいだは、聞こえていない。
追い越されること自体も、どうということはない。道というのはそういうもので、速い者から先へ行く。それだけだ。
後ろから、足音が来た。
――同じ足音だった。
足を止めた。
右足が下りきる前に、体のほうが先に止まっていた。
懐が、鳴らない。
ずっとそこにあった音が、ない。ないということだけが、耳の奥に残っている。
自分の呼吸の音が、急に近い。シャツが一度ふくらんで、しぼんだ。
車輪の音も、猫の足の音も、もう俺のところにはなかった。前へ行った者の音は、前にしかない。
聞こえているのは、後ろから来る足音だけだった。
足音は、止まっている俺の横まで来た。
旅の格好の誰かが、また横に並んで、前へ出て、遠ざかっていく。
肘が、さっきと同じ高さまで上がった。そこで止まった。手を上げかけて、上げそこねた。
充実度29%。
さっきから、動いていない。
数字は、目の端でそのまま止まっている。
……追い越した覚えが、ないんだが。
道は広い。よそ見もした。そういうこともある。
リゼは止まらない。荷馬車も止まらない。猫だけが俺の脇で一度足踏みをして、すぐ前へ行った。
三人ぶんの背中が、そろって小さくなっていく。
小走りで追いついた。歩き出すと、かちり、とまた鳴りはじめた。
鳴りはじめてしまえば、もう何ということもない。
リゼが、遠ざかっていく背中のほうを見ていた。足は止めていない。何も言わない。
前のほうで、旅の格好はもう小さくなっている。
俺が見ているのに気づくと、また前を向いた。
口を開きかけて、やめた。
猫は、まだ何も言わない。喋らない猫というのは、思っていたより重い。
三人ぶんの足音と、車輪だけが鳴っていた。
しばらく行ってから、猫が言った。
「……方角の判断って、たしか私の業務じゃないのよねえ」
「……その間はなんだったんだよ」
猫は答えない。四つ足で、律儀についてくる。舌を少し出していた。
尻尾だけが、やたらとまっすぐ上を向いている。
充実度40%。
リゼの一歩と、俺の一歩が、同じところで地面を離れていた。気づいたが、それだけだ。
いつからかは、わからない。
道の先が、二つに分かれているのが見えた。
影が伸びきって、道の先へ届いている。俺のも、リゼのも、猫のも、全部そっちを向いていた。
道が二つになった。
どちらも同じ幅で、同じ乾き方をしている。目印になるものは何もない。どちらが正しいと言う者も、ここにはいない。
足の裏が、じんわり熱い。踏んだぶんだけ、そのぶん。
懐は、まだ鳴っている。かちり、かちり、と、歩幅と同じところで。
猫は、とっくに喋らなくなっていた。それでもついてくる。
行き先は、まだ誰も言っていない。俺も決めていない。決めた覚えもないまま、足だけがここまで動いてきた。
どっちへ、と言いかけた。
言い終わらなかった。
息を吸う。喉が乾いていて、声になる前に引っかかった。
口の中が、土の味がした。
前の背中は、もう分かれ目のところまで行っている。速さは変わらない。歩幅も変わらない。
片方の道にだけ、轍が一本、深く残っていた。リゼは、何も言わずにそっちへ入っていく。
充実度51%。歩いた。それだけの一日で、これだ。
「――おい。リゼ」




