ep046「俺のために頭を下げた男がいたので、崖の下まで走って爆ぜた」
崖の下で、割れた荷を見つけた。
持ち主は、すぐに分かった。担いだときの形が、まだ手に残っている。
――昨日、俺に頼もうとして、やめた男の荷を、はじめに上げたのは、俺だった。
草が倒れて、そこだけ土が出ていた。割れ口の欠けたところに、朝の光が当たっている。
割れて、中身は、とっくに土に染みていた。
しゃがんで、割れ口に指を当てた。欠けたところは、思ったより鋭くない。角が丸くなっている。
土は冷たかった。指の腹についたぶんは、こすっても落ちない。
端に手を掛けて、少しだけ浮かせた。担いだときより、ずっと軽い。
崖の上のほうで、きし、きし、と鳴っている。町のあちこちだ。昨日より多い。明日の支度だろう。
草を踏む音がして、男が来た。俺の顔を見て、それから、足元を見た。
「すまん。あんたのせいじゃない」
俺は割れたやつを持ち上げて、差し出した。
男は受け取らなかった。半歩、下がった。
「……それは、もう、うちのじゃない」
「あんたのだろう」
「落ちたやつは、引き取らないんだ。ここじゃ」
「誰が決めたんだ、それ」
男は少し考えてから言った。
「……決めた人は、いないと思う」
それで終わりだった。男は、来たときと同じ道を戻っていった。
草を分けた跡は、一本しか増えていない。行きも帰りも、同じところを踏んで戻ったらしい。
責める相手がいない。謝る相手もいない。手に残ったのは、誰のものでもない荷だけだ。
充実度33%が、21%まで落ちる。
いつのまにか、リゼが横にしゃがんでいた。割れ口のそばで、綱の端が絡んだままになっている。指でつまんで、少しだけ持ち上げた。
「……これ、下ろすつもりで結んであります」
それだけ言って、指を離した。綱の端が草の上に落ちて、絡んだ形のまま動かない。
「ミツルさん、いま――」
「あー、その話。私、聞きたくないのよね。査定に響くから」
肩の上から、白猫が被せた。リゼは口を閉じた。
少し先で、きし、と鳴った。石段の下の、いちばん端の綱だ。
今朝は、あれも鳴っている。
俺は、割れたやつを素手で抱えた。腕を回した拍子に、割れ口の角が肘の内側に当たる。抱え直しても、当たるところは変わらなかった。
上着の内側で、預かったままの振り子がかたりと鳴った。
石段を上がった。
上がりきっても、腕の中のものは軽くならなかった。
道の突き当たりの欄干に、上げ切った籠が留めてあった。一つではない。掛け金に綱を一回りさせたやつが、並んで垂れている。
欄干の端まで、途切れずに続いていた。手前の綱は色が濃くて、奥へ行くほど白っぽい。留めてから、どれだけ経ったかの差だ。
その前に、男が立っている。綱を握ったまま。手は、結び目のところにある。
俺は、その足元に荷を置いた。籠の列の前に、一つ増えた。置いた拍子に、割れ口から土がこぼれた。誰も見なかった。
口を開く前に、横から人が入ってきた。俺の前に立って、こっちを向く。
「……やめてくれ」
脅している声ではなかった。怯えてもいなかった。頼んでいる声だった。
そして、その男は綱元のほうへ向き直った。足を止めて、軽く頭を下げる。
俺の代わりに。知らない男だった。
下げたまま、なかなか上げなかった。
昨日この欄干を通った連中は、みんな一瞬で頭を戻していた。この男は戻さない。背中が丸まって、襟の合わせ目が浮いている。首の後ろだけが日に焼けていた。下の道で焼けた色だ。
後ろを通りかかった者が足を止めて、それから、何も言わずに行った。そのあいだ、男はずっと同じ角度でいた。
綱元の手は結び目から離れず、送りもしない。
それきり、何も起きなかった。
――ああ。そういうことか。
充実度21%が、50%になる。
……なんで上がるんだよ、これで。
俺は、頭を下げようとした。
顎が下がって、欄干の足元が視界に入りかけたところで、綱元が背を向けた。
下がりきる前だった。
顔を上げたときには、背中が籠の列のほうを向いていた。手はもう、次の結び目にかかっている。
肩の上で、白猫が欠伸をした。
「ねえミツルくん。私、さっきから気になってるんだけど」
「なんだ」
「あの人、一日じゅうあそこにいるでしょう。お昼、どうしてるのかしら」
「……知るか」
「握ったまま食べられるものって、限られるわよ。私だったら、初日で辞めるわ」
「じゃあ辞めてくれ」
「あら。私は握ってないもの。乗ってるだけよ」
荷は、そこに置いたままにした。俺は石段を降りた。
降りるあいだ、後ろで音はしなかった。
日が傾くと、町の綱は鳴りやんだ。
一本だけ、残った。
石段の下、いちばん端の綱だ。空の籠が上がって、途中で下りて、また上がる。明日の支度を、確かめている。
崖の影が下の道まで伸びて、綱の途中で切れていた。籠は、明るいところと暗いところを行き来している。
「上に、荷を置いてきた」
娘は綱を見たままだった。
「置いてきたって、誰の」
「誰のでもない」
「……ばかじゃないの」
愚痴をこぼすときの喋り方だった。手は動いたままだ。きし、きし、と鳴っている。
その手が、止まった。
握ったまま、引くのをやめている。籠が、途中で止まった。綱は張ったまま、どこも動かない。
そのあいだだけ、音が消えた。
「ミツル」
名前を呼ばれた。この町に来てから、初めてだった。
一拍あった。
「……明日、来ないで」
理由は言わなかった。手がまた動いて、籠が上がりはじめる。きし、と音が戻った。
来るな、と言われた。そこだけは、はっきりしていた。
充実度50%が、98%になった。
「充実度98%。……なんで、断られて上がるんだよ」
「あー、上がった上がった」
肩の上で、白猫が起き上がった。
「ミツルくん、もう、ぎりぎりじゃない。走る? 走るわよね」
「……走る」
下の道を外れた。
草をかき分けて、崖の裾を回り込む。娘の綱からも、荷馬車からも遠ざかる向きだ。石段の明かりが、後ろへ落ちていった。
草の丈は腰まであった。分けても分けても、先が同じ色で埋まっている。葉の縁が手の甲を撫でて、そのたびに細い線が残った。
足の裏が、崖から落ちてきた石を踏む。踏むたびに、身体の芯のほうが押し上げられてくる。胸のあたりで、もう溢れかけているものがある。
走らないと、間に合わない。
朝、割れたやつを拾ったところまで来た。草と土しかない。その荷は俺が上へ運んでしまったから、本当に、何も残っていない。
立ち止まると、耳の奥で自分の心臓が鳴っていた。
息を吸って、止めた。
爆ぜた。
充実度98%が、0%になる。
上着の、焦げていたところが、また焦げた。
耳が戻ってくるまで、少しかかった。
草が、外へ向かって倒れていた。まるく地面が出て、その真ん中に俺が立っている。
戻ってきたとき、下の道のほうからは、何も聞こえなかった。さっきまで、一本だけ鳴っていたのに。
崖の上を見上げた。欄干のところに、まだ人が立っている。手は、綱にかかったままだった。
こっちを見ている。驚いてはいない。近づいてもこない。しばらくして、顔だけが元の向きに戻った。
それだけだった。
日が落ちた。下の道から先に暗くなっていく。今日は、どこも静かだ。崖の上にも、鳴っているものは一つもない。
荷馬車の幌が、上がっていた。
昨日は下ろしたままだった。骨のところに畳んだぶんが寄せてあって、荷台の底まで暗がりが見えている。積んであったものは、端へ寄せられていた。
リゼは荷馬車のところで一度だけ手を止めて、それから、何も言わずに向こうへ回った。俺も訊かなかった。
石段の下に、娘が立っていた。俺を待っていたらしい。
下の道には、まだ何もない。均された土が、朝のまま残っている。荷が集まるのは、明日の朝だ。
充実度0%が、4%になる。
「明日、あたしが引くのは、あんたの連れの荷だって」
娘は、綱の擦り切れたところを指でなぞりながら言った。
「……放せって、言われてる」
息が、抜けた。
――他人のじゃない。
「……それなら、いい」




