ep044「人助けのつもりで荷を上げて、生まれて初めて謝った」
両手が塞がっていた。
「ミツルさん。もう一つ、お願いできますか」
……軽くするって話は、どこへ行った。
昨日の夕方、言い出したのは俺のほうだ。その振り子、俺が持つ。荷を軽くするんだろ。自分の口から出た言葉である。
リゼは礼を言わなかった。荷の紐を締め直して、包みを一つ、こちらへ寄こしただけだ。
で、受け取った。手のほうが先に出た。
右に一つ、左に一つ。指はとっくに曲がったままだ。
振り子は上着の内側に入れてある。歩くたび、木の錘が脇腹に当たる。上着の裾は焦げたままだ。直す当ては、まだない。
「アルーダ」
リゼは荷の紐を締め直していて、顔を上げなかった。
行き先の名だけだった。なぜそこなのかは言わない。俺も訊かない。
充実度46%。
街道を歩く。朝のうちは人が少ない。荷馬車が前をゆっくり進んでいく。
リゼは身軽だ。白いのに至っては歩いてもいない。荷の上で丸くなって運ばれている。
抱えているのは、俺だけである。
一度、脇に挟んでみた。包みの角が肋に刺さって、結局また両手に戻した。中で何かが動く。何が入っているのかは知らない。
充実度40%。
……なんで下がる。
こんな下げ方があるか。
「あら。よかったじゃない、下がって」
荷の上の白いのが、尻尾の先だけ動かした。
「……よくない」
昼過ぎ、道の先で正面が塞がった。
崖だった。灰色の岩が、まっすぐ空へ立っている。
上に、町がある。
石段が一本、崖の腹を真上へ伸びていた。
人が一人ずつ上がっていく。手ぶらだ。籠を提げている者も、包みを抱えている者も、一人もいない。
荷は上がらない。
代わりに、崖の途中を籠が上がっていた。思ったよりゆっくりだ。
崖の縁に滑車が一つ突き出ている。綱はそこを通って下まで垂れていた。
きし、きし、と鳴る。
その音は、耳を澄まさなくても届いた。町のどこかで、ずっと同じ音がしていた。
……あれで、一日に何往復するんだ。
石段の下には、荷が積み上がっている。包みと、革の袋と、籠。
脇に人が何人か立って、上を見ていた。誰も座らない。自分の荷を見て、それから上を見る。急かす者はいない。急かしても上がらないからだ。
「荷は、上がらないんだ。人だけ上がる」
声のしたほうに、娘がいた。
綱を両手で握って、体ごと下へ引いている。引くと、崖の上で籠が動いた。
一度手を止めて、掌に唾をつけて、握り直す。
掌の付け根が、綱の太さのぶんだけ硬くなっていた。
リゼが横で綱を見ていた。
「上がるときだけ鳴ります。下ろすときは、鳴りません」
それだけ言って、また荷の紐に手をやった。
娘は籠を一つ上げ切ると、次の籠を鉤に掛けた。掛けてから、一度、下へ引いて確かめる。
それから、また綱を握った。
……全部あれで上がるのか。この町の荷が、一つ残らず。
「今日の分は、明日になる」
誰に言うでもない言い方だった。
「三日後が上げの日だからさ。それまでに片づけないと、積み上がる。片づかないんだよ、どうやったって」
愚痴である。頼まれてはいない。
助けてくれとは、一言も言われていない。
娘が、一度だけ上を見た。
石段のずっと上のほうを見て、それきり何も言わずに綱へ戻る。
積んであるのは、上へ行く荷だ。持ち主は、そこに立っている。
俺は、抱えていたものを地面に置いた。
それから、積んであるほうの荷を膝に乗せた。
背負い縄をかけた。肩当ての位置を直して、立つ。
膝から背へ回して、縄が肩に食い込んだところで、体が思い出したように持ち上がった。
誰も止めなかった。荷の持ち主は目の前に立っていて、口を開けたままこっちを見ている。
石段を上がった。
途中で、下から誰かが何か言った。振り返らなかった。
段は高さがまちまちで、上へ行くほど踏み面が斜めになる。踊り場で一度止まって、また上がった。
欄干に手をつくと、下の道が思ったより小さくなっていた。
上がっているあいだ、ずっと鳴っていた。きし、きし。すぐ横の崖を、籠が同じ速さで上がっていく。
音は、上がるあいだだけ続く。籠が縁に着くと、消える。
鳴っているのは、あっちだ。俺の背中は鳴らない。
崖の籠は、俺より遅かった。踊り場で追い越した。
上の町の戸口が、次々に開いた。
「荷が上がってる」
「上がるはずのないものが」
置く場所を訊いたら、黙って指をさされた。さしたまま、誰も手を下ろさない。
荷を下ろして振り返ると、戸口の人数が増えていた。
俺は下りた。下りるほうが速い。
石段の下では、誰も何も言わなかった。次の荷を膝に乗せる。それだけだ。
二往復目。
三往復目で、石段の下から荷が消えた。
今日の分も、明日に回るはずだった分も、その次も。
片づいた。
空になった地面に、四角い跡だけが残っている。
誰かが手を叩いた。一人が叩くと、二人になった。
その音は、崖に当たって戻ってきた。
充実度68%。
……ああ、これはよくない。
よくないが、悪いことはしていない。
白いのが、欄干の上を歩いてきた。
「ミツルくん、あなた今日ぜんぶ一人でやったわねえ」
「……余ってたからな、力が」
リゼは止めなかった。
荷の紐に手をかけたまま、一度だけ下を見た。石段の下のほうを、しばらく見ていた。
何を見ていたのかは、訊かなかった。
日が傾いた。
上の町の壁はまだ白い。下の道のほうが、先に暗くなっていた。
石段を下りきると、あの娘が立っていた。
娘は綱のそばにいた。綱は垂れたままだ。誰も握っていない。
籠は空だった。鉤には何も掛かっていない。
鉤は綱の先で揺れていた。掛けるものがないと、あれはただ揺れる。
昼に上を見ていた人たちは、もういない。
朝から俺が抱えていた包みが、置いたところにそのまま残っている。俺が置いたときのままだ。誰も動かしていない。
娘は俺を見た。
それから、空の籠を見た。
目が合っていた時間より、籠を見ている時間のほうが長かった。
「余計なことを」
それだけだった。声は高くなかった。責める調子ですらない。
少し後ろで、リゼが足を止めた。白いのも黙っている。
理由は言わなかった。訊けば言ったかもしれない。訊かなかった。
訊く必要もなかった。空の籠と、掛かっていない鉤と、俺を先に見た目の順番と。
背中の縄はもう外してある。肩の当たっていたところだけが、まだ熱い。
言い返さなかった。
言い返す材料が、一つもなかった。
両手は、空いていた。
充実度9%。
……下がった。
今度は、ちゃんと下がった。
「……悪かった」
自分の声が、思ったより小さかった。
娘は、答えなかった。
空の籠を持ち上げて、鉤に掛けて、一度、下へ引いた。
掛かったのを体で確かめる手つきだった。中身のあるときと、まったく同じだ。中身は入っていない。手順だけが残っている。
娘は、籠から手を離さなかった。
上の町では、まだ誰かが手を叩いた話をしている。声が崖の上から、途切れ途切れに落ちてくる。
俺の背中には、まだ上の町の光が当たっていた。娘の立っているところは、もう暗い。光は上から来ている。俺のいるところまでで、切れていた。
石段の上から、声が降ってきた。
「――その荷、どなたのお許しで上げなさった」
綱は、鳴らなかった。




