ep043「充実度の下げ方を二十通り試したのに、今日は一つも効かなかった」
充実度23%。
「――よし。今日は、これを下げる」
馬が、草を食っていた。
俺の話は、まったく聞いていなかった。
昨日、この世界で初めて自分から自爆魔道士だと名乗った手前、中身のほうは下げておきたい。
言い出したのは、こっちが先ではない。
朝いちばんに、リゼが腹帯の革を指で挟んで、少し引いた。
「……荷が、重すぎるのだと思います」
裂けたわけでも、切れたわけでもない。伸びただけだ。
それでも、この人は街道の途中で足を止めた。
街道からそれて、刈られたあとの草地へ荷馬車を寄せる。車輪が土に食い込んで、一度だけ大きく傾いた。
青くさい匂いが立った。切られた草の断面が、まだ乾ききっていない。
轅から馬を外すと、荷馬車がわずかに沈んだ。
……そんなに載ってたのか。
馬は外された途端に首を下げて、草を食いはじめた。秣もやらないうちからである。
リゼは革紐を歯で押さえて、腹帯を締め直している。今日の仕事は、それで終わりらしい。
ならば、こっちには別の仕事がある。
一つ目。孤独。
木陰の縁から離れて、日なたに一人で座った。誰とも喋らない。何もしない。前世の俺が毎日やっていたことだ。
刈られた跡は硬い。座ると、切り口が尻に刺さる。日は真上に近くて、首の後ろがひりひりと熱い。
いい感じだ。誰にも必要とされていない。
しばらくして、すぐ隣で草を食む音がした。
馬だった。
追い払う。二歩だけ離れて、また戻ってくる。もう一度追い払う。同じだけ離れて、また来る。
三度目で、腕を上げるのをやめた。
懐かれたわけではない。木陰の縁が、そのぶん動いただけだ。
こいつは日陰に来た。俺のところに来たのではない。
それは分かっている。分かっているのに。
充実度28%。
……なんで上がる。
「あら。下げに来たのに、上がってるわねえ」
荷の上で腹を出していた白い猫が、片目だけ開けた。
「……うるさい」
荷を全部下ろすとき、布に包んだものが出てきた。結び目は、渡された日のままだ。
俺はそれを、荷の上に置き直した。
リゼが莚を広げはじめる。
「置いていく物を、選びます」
昼。
莚の上に、荷が順に並んでいく。壊れやすいものが先で、いちばん下に積むものが最後だ。順番は決まっていて、リゼは一度も迷わない。
草を食む音が、さっきより近い。顔を上げると、馬は莚のすぐ向こうにいた。
二つ目。惨め。
莚から離れたところで、一人で飯を食った。木の実と、干した香の切れ端。
噛むと、口の中の水気が全部持っていかれる。
誰も呼ばない。誰も来ない。上出来だ。
白いのが来て、俺の横で腹を出した。日なたのいちばん熱いところを選んで、ごろりと転がる。
少し遅れて、リゼが莚をもう一枚、すぐ横に広げた。
「……なんで、そこ」
「次は、ここです」
誘われたのでも、気を遣われたのでもない。次に莚を広げる場所も、この人の中では決まっている。
白いのが寝返りを打って、背中を俺の腿に預けた。重い。
三つ目。屈辱。
「……聞いてくれ。前にいた世界で、いちばん思い出したくない日の話だ。あれは――」
「それは、三度目です」
言い終わる前だった。文箱は、膝のわきに閉じたままだ。
「……記録するな」
「していません。数えているだけです」
もっと悪い。
あとは運ぶだけになった。持ち上げて、積んで、下ろして、また積む。
本気を出すと速い。
革の袋を両脇に一つずつ抱えて、二歩で荷台まで運ぶ。下ろして、振り返って、また掴む。息は上がらない。上がらないのが腹立たしくて、次は三つ抱えた。
袋の角が肩に食い込む。かろうじて労働らしいのは、それだけだった。汗が顎から落ちて、莚の端に丸い染みを作る。
速すぎて、リゼが選び終わる前に、半分が荷馬車に戻っていた。
「あなた、下げに来たんじゃなかったの」
言い返さなかった。黙って、次の袋を担いだ。
充実度17%。
……下がった。
なんで、いま。
日が回って、木陰の縁がまた動いた。
喋ったのは、荷のことばかりだ。それは重い、それは割れる、それは下でいい。
俺が持ち上げて、リゼが指をさす。それだけを何度も繰り返した。
充実度34%。
莚の端に、振り子が一つ残っていた。
値札がついていない。糸が切れて、錘だけが布の上に転がっている。
どの順番にも、入っていなかった。
新しいのは荷にある。糸の切れていないのが、ちゃんと一つ。
それなのに、こっちも持っている。
錘は木でできていた。塗りが剥げて、角が丸くなっている。
握った手の形に、へこみが残っていた。俺の手ではない。
訊くつもりはなかった。口のほうが先に動いた。
「それ、直せるのか」
物のことなら、訊いていいはずだ。
今朝、伸びた革を締め直したばかりの人である。
リゼの手は止まらなかった。
「直しません」
「……なんで」
「兄のですので」
手が、止まった。
一度だけだった。すぐにまた、袋の口を縛りはじめる。
兄。
この人が身内の話をするのを、聞いたことがない。
日は真上から少し外れて、莚の上を白くしていた。
昼下がりの草地に、隠れるところは一つもない。
「家は、解呪師の工房でした」
言い方は、荷の中身を数え上げるときと変わらなかった。
「一度だけ、うちで手に負えない呪いを、請けました」
荷の上で、白いのが体を起こした。
「――ねえ、ミツルくん。お腹すかない?」
「……いま?」
リゼは構わなかった。手も、口も止めない。
白いのは、体を起こしたままだった。行き場をなくした前足が、荷の上で一度だけ宙を掻く。
「暴発しました」
二つ目の袋の口が縛られる。
「工房は、もうありません」
三つ目の口も縛られた。
「兄は、いまも眠ったままです」
革紐の端が、きゅっと鳴った。
それから、リゼは片手を地面から少しだけ上げた。手のひらを下に向けて、そこで止める。
「これくらいの背丈のときです」
手のひらは、それきり動かなかった。
何年前とは、言わなかった。
どこの話なのかも、言わなかった。
「……いつか、行きたい場所があります」
どこ、とは続かなかった。
前に一度だけ、解けない呪いに挑んで負けた、と言ったのは、この人だ。
俺は、何も言わなかった。
慰めは、たぶん違う。
大変だったな、も違う。俺なら言われたくない。
訊いていいことが、一つも思いつかなかった。
だから、黙って手近な袋を持ち上げた。
馬は、そのあいだもずっと草を食っていた。
ぶち、ぶち、と根の切れる音がする。尾が動いて、蠅を払う。
腹が、呼吸のたびに膨らんでは戻る。
音は、一度も止まらなかった。
どれくらいそうしていたのか、影の位置でしか分からない。
リゼが手を下ろして、次の袋を引き寄せた。
日が傾いた。
荷はまとまり、革の袋の口は全部縛られた。
置いていく物は、結局ほとんど選ばれなかった。
莚に残ったのは、欠けた匙が一つと、口の裂けた袋が一つ。それだけだ。
この一日で聞いた声は、三人ぶんしかない。
四つ目。
俺は莚から少し離れたところに座り直した。
今度は、馬も来なかった。
座り方は、朝と同じだった。
草地の色が抜けていく。日はもう横から差していて、草の一本ずつが長い影を引いていた。地面の熱が引いて、尻の下だけがまだ温かい。
蠅の音も、いつのまにか聞こえない。
草を食む音だけが、遠くで続いている。
上着の裾は焦げたままだ。日の色で、焦げ跡の縁だけが赤く見える。
布に包んだものが、荷の上に置いてある。
朝は、置き直せた。
手を伸ばして、引っ込めた。
充実度46%。
……今日、俺は誰も助けてない。何もしていない。
一日じゅう、下げようとしていた。
それで、これだ。
何もしない日が、いちばん危ない。
振り子は、まだ莚の端にあった。
「――その振り子、俺が持つ。荷、軽くするんだろ」
馬が、顔を上げた。
草を食む音が、止まった。




