ep041「魔物を音もなく倒したら、名前を訊かれて爆ぜた」
今朝は、屋根に登らないと決めた。
半分だけ張り替えた葦簀が、風で鳴っている。焼けたほうと、新しいほうで、音が違う。
……人助けを我慢するのが、こんなに難しいとは思わなかった。
掛茶屋の軒下から、俺はその屋根を見上げていた。焦げの残った側は硬く乾いた音を立てる。張り替えた側は、もっと低くて柔らかい。同じ一枚の上で、音が二種類ある。
手の行き場がなかった。外套の袖口を意味もなく直して、直し終わってしまって、結局、腕を組む。
「今日は登らないのねえ」
足もとで白い猫が言った。
「…………」
「止められたものねえ」
「……猫のくせに、よく覚えてるな」
充実度12%。
腕を組んだだけで七つも減った。
町のほうで、木の擦れる音がしていた。男が二人がかりで縁台を運び出している。別の一人が、道の端に砂を撒いていた。
縁台を担いだ男が額の汗を手の甲で拭って、また同じ道を戻っていく。荷車の轍が、いつもより幾筋も増えていた。
道の反対側では、手ぬぐいを姉さんかぶりにした女たちが地面を掃いている。竹箒の音が、葦簀の音の合間を縫うように鳴った。
板を地面に下ろす音。砂を均す音。どれも、慣れた手の音だった。
木戸の札の前で足を止める者が、朝から何度も入れ替わる。読んでいる時間より、隣の者と顔を見合わせている時間のほうが長い。
誰も急いでいない。急いでいないのに、みんな楽しそうだった。
リゼが、撒かれたばかりの砂を靴の先でなぞる。
「……道より、広いです」
縁台を運んできた男が、軒下の日陰でひと息ついた。俺は訊いてみた。
「何かあるのか」
「明日ですよ。明日は、木戸の内側で、みなさんの前でお見せくださるそうです」
男は手ぬぐいで顔を拭いて、また縁台のほうへ戻っていった。
……町の中で?
昼になっても、縁台は増え続けた。
道の端の砂は、木戸の内側のいちばん広いところまで伸びている。人がどこに集まる予定なのかは、物のほうが先に教えてくれた。
子どもが砂の上を走って、大人に笑って怒られていた。
掛茶屋の裏へ回ると、あの子が地面に布を広げていた。
いったん包んで、結び目をほどいて、また包み直している。布の四隅を合わせる指は、丁寧すぎるほど丁寧だった。
俺と目が合うと、一度だけ頭を下げて、それから手を動かした。
リゼが隣に来て、道の端を見ている。
「わたしが見た火は、人が集まってから上がりました」
それから、少し間があった。
「明日は、いちばん人が集まる場所です」
明日、ここで撃つ気だ。
町ぜんぶが、それを楽しみにしている。
リゼは受け取りの書き付けを一度だけ折って、外套の内側へしまった。中身が何かは、二人とも言わなかった。
「これだけ人が出るなら、落ちるものも増えるわねえ」
「拾うなよ」
充実度12%のまま、昼が過ぎた。
夕方、街道のほうが騒がしくなった。
町じゅうの顔が、いっせいにそっちを向く。縁台に腰かけていた者まで立ち上がって、木戸の向こうへ首を伸ばしていた。
「あの方は、今日は街道のほうだそうです」
誰かが、そう言った。
そのあいだに、掛茶屋の裏の、草のほうから一匹入ってきていた。街道に接した町の縁だ。木戸は通っていない。
俺は走った。
考えてはいない。走って、殴った。それで終わりだった。
拳に残った衝撃が、遅れて肩まで上がってきた。手の甲の皮が一枚、ずれたように熱い。息だけが、まだ走っていたときの速さのままだった。
鈍い音が一つ。
そのあとが、静かすぎた。
悲鳴も、駆けてくる足音もない。風の音まで、やけにはっきり聞こえた。
葦簀が風で鳴った。焼けたほうの、乾いた音だ。
遠くで、縁台を動かす音がしている。こっちを見ている顔は、一つもない。
倒れた一匹の脇で、俺は拳を開いたり閉じたりしていた。開いても閉じても、行き場がない。
掛茶屋の前に、あの子が立っていた。
あの子の目は、まず俺の手のあたりで止まっていた。それから、ゆっくりと顔のほうへ上がってくる。草のほうに伸びているものと、俺と。何度か行き来した。
「……終わったん、ですか」
「終わった」
「……音が、しませんでした」
それきり、あの子は何も言わなかった。
瞬きが、いつもより多かった。唇が薄く開いて、何も出さないまま閉じる。視線が一度だけ草のほうへ戻って、また俺の手に返ってきた。
それから、顔だけが変わっていった。
俺も、何も言わなかった。
言わなくても、済んでしまった。
「……あなたが、本物なんですね」
充実度44%。
あの子の指が、俺の袖に引っかかった。強くはない。掴むというより、手のほうが先に動いてしまった触れ方だった。
「――お名前を、教えてください」
充実度98%。
走った。ひさしぶりの全力疾走だ。……体が、忘れかけてた。
木戸を抜け、街道を横切って、並木の裏の草地の縁まで。
背中で、足音がした。
「待ってください――」
充実度100%。
決め台詞を言う暇は、なかった。
閃光。土煙。足もとの草が、輪になって黒くなる。
遠くで、縁台を動かす音が一度止まって、また続いた。
耳の奥で細い音が鳴り続けている。膝が笑っていた。焦げた草の匂いが、下のほうから上がってくる。
地面に手をついて、立った。手のひらについた灰を握って落とす。それだけで息が上がった。
土煙が晴れると、木戸の内側で、あの子が息を切らして立っていた。
「――本当に、爆発なさるんですね」
充実度0%。
「……ひさしぶりに見ました」
いつのまにかリゼが横に来ていた。俺の上着は、袖のあたりが黒く焦げている。
「葦簀のぶん、上着で払ったわねえ」
「言うな」
町の者が二人がかりで、倒れた一匹に縄をかけていた。誰が倒したのかは、誰も言わなかった。
日暮れ。半分だけ張り替えた葦簀が、また鳴っていた。今度は、新しいほうの柔らかい音だ。
その下で、あの子が待っていた。
「行ってらっしゃいな」
猫は縁台の下から出てこなかった。
俺は袖口を直しかけて、やめた。
「間宮充。……ミツルでいい」
あの子は、唇だけを動かした。声にはならなかった。
もう一度、動いた。今度も、音は出なかった。
それから、深く頭を下げた。頭巾の男に下げたのと、同じ深さだった。
下げたまま、しばらく上げなかった。
充実度11%。
俺の足は、また動かなくなった。
「……わたし、明日も、納めます」
「なんでだよ」
あの子は、すぐには答えなかった。並べたばかりの縁台のほうを、一度だけ見た。
「あの方に助けていただいたことまで、嘘になってしまいますから」
しばらく、俯いたままだった。
それから、顔を上げた。目は、乾いていた。泣いたあとの目ではない。
「町の皆さんが、あの日、本気で嬉しかったこと。それだけは、本物だったんです」
リゼは、少し離れたところで口を挟まずにいた。
風が一度やんで、葦簀の音が途切れた。
俺が口を開くより先だった。
両手を前で合わせて、一度だけ頭を下げる。同じ形だった。
「――それは、できません」
喉の奥で、言葉がひとつつっかえた。
飲み込むのに、少しかかった。
「……頼む」




