ep037「顔のない敵を探す旅の初日、宿で昔話を聞いただけなのに、また充実度が上がった」
顔のない敵を探しに行く。
方向は、ゆうべ決めた。あとは、どっちに歩けばいいのかだけが分からない。
旅の初日から、これである。
膝の上で、白猫が長いあくびをした。
「顔がないんじゃ、地図にも載ってないでしょうねえ。……で、どっち?」
うるさい。
町の外れで道は二股になっていて、俺たちは片方を選んだ。選んだ理由は、そっちのほうが平らだったからだ。
立派な旅立ちである。
「平らって。それ、荷車の都合でしょう」
「荷車の都合は俺たちの都合だ」
「敵の都合は?」
「知るか」
白猫が鼻で笑うような音を出した。猫がどうやってそれをやるのか、俺にはいまだに分からない。
車輪が石を噛んで、荷の縄が小さく鳴る。リゼは手綱を握ったまま、何も言わない。行商の顔だ。
振り返ると、蔵の戸が、遠くにまだ開いたままだった。
……座ってこなかった席のことは、考えないことにする。
充実度8%。ゆうべから、一目盛りも動いていない。
「で、あては?」
「ない」
「まあ」
白猫が、感心したように尻尾を振った。腹の立つ振り方だった。
「顔がないってことは、どこかにはいるってことだ。だから、見に行く」
「見に行く先が分からないのに?」
「うるさい」
言い返せないときは、そう言うしかない。
昼を過ぎても、道はまっすぐだった。畑があって、また畑があって、その先にもまだ畑がある。
景色が変わらないぶん、進んでいるという実感のほうが先に薄くなっていく。
「ミツルくん、さっきから同じ顔してるわよ」
「同じ景色なんだよ」
荷を積んだ誰かとすれ違うたび、リゼが小さく会釈をする。すれ違いざま、荷車の男がリゼに何か言った。リゼが短く応える。それで終わりだった。
何を話したのか訊いたら、天気です、と返ってきた。
旅の会話とは、そういうものらしい。
誰も、俺の顔を知らない。
……気楽なもんだ。
名前を呼ばれない。指を差されない。笑われもしない。
カスタンでは、そのどれもがあった。
……ないならないで、少し落ち着かないものだ。
「しょんぼりしてる?」
「してない」
「してるでしょう。誰にも見られてないと、しょんぼりする質なのよ、あなた」
余計なお世話である。
日が傾くころ、街道の先に宿場が見えてきた。
飯と寝床があるだけの、名前を覚える気にもならない並びだ。それでも、屋根はある。
土間のほうから、煮炊きの匂いが出ていた。
腹が鳴る。誰にも聞こえていないことにした。
「いちばん安い部屋を」
言ったのは、リゼだ。俺は横で口を出さない。値切りの担当は、この隊では決まっている。
宿の主人が、俺たちを順に見た。
「三人ですかい」
「一部屋で。……一人と一匹と、もう一人です」
最後の「もう一人」、たぶん俺だ。
主人は、白猫のほうを二度見た。俺のほうは一度きりだった。
順位がはっきりしている宿である。
通されたのは、壁の薄い相部屋だった。隣の話し声が、板一枚のこっちまで届く。何を言っているかは分からないのに、笑ったところだけは分かる。
卓の上に、行灯がひとつ。
火を入れると、油の匂いが先に立った。灯りより匂いのほうが、部屋を早く満たしていく。
屋根の下で火を見るのは、久しぶりだった。
膳が来た。汁と、麦の飯と、干した魚が一尾。
湯気が立ちのぼって、行灯の光をひとすじ横切っていく。匙を入れると、底のほうに何か沈んでいた。菜っ葉だ。たぶん。
「その魚、半分は私のだと思うのよねえ」
「思うな」
白猫は、思ったとおりにした。
「半分って言っただろ」
「頭から尻尾まで一直線に半分よ。縦に」
「縦に割れるか」
割れないので、白猫は横に、半分よりだいぶ多く持っていった。
銭は、リゼの売上から出た。俺は口を出さない。出せる口がない。
リゼは汁を静かに飲んでいる。どこで何が売れたのかは、言わない。
こっちも、訊かない。
事件もない。悪党もいない。誰も殴ってこないし、誰も俺に礼を言わない。
ただ、飯がある。
それだけの夜だ。
……なのに。
視界の隅の数字が、いつのまにか二十二まで来ている。
おかしい。何もしてないのに。
殴ってもいない。爆ぜてもいない。誰かの役に立った覚えも、今日は一度もない。
あるのは汁と麦の飯と魚の骨、それから行灯がひとつ。
それだけで上がるなら、ずいぶん安い数字である。
「あら、上がってる。ごはんが美味しいと上がるのねえ、あなた」
そういう話か。
そういう話にしておく。深く考えると、だいたい碌なことにならない。
行灯の芯が、少しずつ短くなっていった。
部屋が暗くなったころ、リゼが灯りを見たまま言った。
「……ゆうべの、続きなんですけど」
どの続きだ、とは訊かなかった。訊かなくても分かる。切ったのは、あっちだ。
相槌は打たない。膝の上で、白猫が魚の尻尾を咥えている。
声は、落としていた。壁が薄い。
「私、前に一度だけ、解けない呪いに挑んで、負けたことがあります」
行灯の火が、息の当たったぶんだけ傾いた。
「呪いというのは、たいてい、掛けた者か掛けられた理由か、どちらかを辿れば解けます。書物には、そう書いてあるんです」
書物には、と言うときだけ、声にいつもの速さが戻りかけた。それも一拍で消えた。
それきり、少し黙った。
「……その人は、今も、眠ったままです」
誰、とは訊かなかった。
眠ったまま、というのがどういう眠り方なのかも、訊かなかった。
訊いていい距離と、訊いていい相手の組み合わせがある。俺は、そのどっちも持っていない。
白猫が、一瞬、魚から口を離して、黙った。
それから、また咥えた。
「……そうか」
俺に言えたのは、それだけだ。
励ましたところで、俺の言葉は軽い。詳しく訊いたところで、俺に解ける道理もない。
だから、聞いた。聞いただけだ。
隣の部屋の笑い声が、いつのまにか止んでいた。誰かが寝返りを打つ音がする。
リゼは、灯りを見たままだった。こっちは、一度も見ない。
「……こういう話、面白くないですよね」
「面白い話だと思って聞いてない」
白猫が、魚の骨を器用に外している。この流れで外すな。
他人の昔話を聞いていただけなのに、視界の隅の数字が、また少し上がっていた。
三十。
……他人のことでも、上がるのか。
そこから先は、考えないことにした。考えて分かるくらいなら、とっくに分かっている。
リゼが、卓に手を置いた。
「続きは、また今度で」
それだけ言って、灯りを消した。
暗い。壁の向こうで、誰かがまた笑った。
……いい話だったのか、悪い話だったのか、俺には分からない。
分からないまま、寝た。
翌朝。
宿を出たら、リゼが先に荷を積んで、待っていた。
俺が寝坊したわけじゃない。あいつが、早いだけだ。
……たぶん。
荷は、ゆうべ下ろしたときより、きれいに積んであった。
その上で、白猫が丸くなっている。
「遅い」
「なんでフェリ課長まで積まれてるんだ」
「積み終わっていたのよ。私も荷なの」
威張るところじゃない。
リゼが手綱を取って、こっちを見ずに言った。
「ミツルさん。行きますか」
「……ああ」
ゆうべのことには、どちらも触れなかった。触れないほうが、たぶん正しい。
荷車が動く。宿場が、後ろへ流れていく。
充実度37%。
……上がってる。
しかも、寝る前より、また上がっている。
「――おい。ゆうべ、昔話をされたのは俺のほうだぞ。上がったのが、なんで俺のなんだ」
リゼは答えなかった。縄の結び目を、もう一度だけ確かめている。
白猫が、荷の上で目を細めた。
「知らないわよ。私のじゃないもの」
顔のない敵は、今日もどこにいるのか分からない。
分からないまま、俺たちは街道を進んだ。




