ep036「本を返したら、蔵のいちばんいい席をもらって爆ぜた」
「――よくなかった、と思う」
一晩かけて出した答えが、それだった。
我ながら、一晩の意味がない。
ゆうべの問いに、それだけ返した。
夜明け前の軒下は暗い。リゼの顔は、声のするあたりに輪郭があるだけだ。俺より先から、そこにいた。
膝の上で、白猫が長いあくびをした。
「あー……はい。それ、一晩かける内容だった?」
うるさい。
充実度0%。ゆうべ、自分で潰した数字だ。土の味が、まだ残っていた。
「そうですか」
正しいとも、間違っているとも言わない。言わないから、こっちが続けることになる。
「よくはなかった。……ただ、あれは、俺が貰っていいやつじゃなかった」
どこかで、板を踏む音がした。暗いうちから、荷を積んでいる。リゼが、少し黙った。
「その言い方を、前に聞いたことがあります」
誰から、とは言わない。
訊けば、答えるのかもしれない。訊かなかった。
「……いえ。今日は、いいです」
通りへ出ると、筵をかけた荷車が、もう動いていた。石畳の掃き目が、車輪で切れている。縄を締め直している男の背中が荷の陰にあって、人足の声がそれを追い越していく。
偽物を並べていた露店は、畳まれていた。売れ残りを箱に戻さず、藁ごと丸めて縄をかけている。敷いていた筵まで、まとめて巻き込んである。
来年また広げる気のある畳み方ではない。市の立っていた広場に、藁くずだけが残っていた。
子供が、知らない旅人を連れてきて、路地の角を指している。ここで《カタストロフ》様が爆ぜたんです、と得意げだ。旅人が律儀に、そこを覗き込んだ。
そこじゃない。
訂正はしない。二つ目ができたらしい。
宿の前で、あの男に会った。戸口の脇に立って、荷が出て行くのを見ている。返事は、訊かれなかった。
「日暮れまでには発ちます」
それだけ言って、深く頭を下げる。両手を、膝の前で揃えて。
俺は、答えなかった。
殴る相手が、最後までいない。
リゼは荷車の脇で、積み方だけを見ていた。行商の顔だ。外套の内側から、白猫が鼻先を出した。
「精が出るわねえ」
そこへ、タニアが走ってきた。
「じいちゃんが、来いって」
それだけ言って、先に立って歩き出した。
蔵の戸は、閉まっていた。
爺さんは、座っていなかった。
裏の風窓の下に立って、埃の落ちる先を、じっと見ていた。
光は、その風窓から入るぶんだけだ。床に細い帯が一本、斜めに落ちている。紙と革の匂いに、湿ったものが混じっていた。
タニアは戸のそばで止まった。祖父の隣までは行かない。リゼも、そこに立った。
爺さんが、こちらを向いた。
「あの続きを、読んでくだされ」
……説得しに来たんじゃない。もう、やめたんだ。言うことなら、ゆうべ全部使った。
それでも、荷から手記を出した。紐を解いて、読みかけの先へ指を置く。渡り人の字は、相変わらず俺にしか読めない。
声に出して、訳しながら読んだ。
「わしは、これを誰にも渡さなんだ。渡さずに、開けておいた。読みたい者が来れば、いつでも読めるように。――守るとは、閉じぬことよ」
読み終えて、顔を上げた。爺さんは、何も言わなかった。風窓の下の埃を、もう一度見ている。
それから、立った。
「タニア。手を貸してくだされ」
タニアは、動かなかった。
一拍あって、それから戸へ行った。
俺は、敷居のこちら側にいた。表の戸は、この家の二人でなければ動かない。
閂が敷居に落ちて、二人が肩で押した。
動かない。
もう一度、押した。
蝶番が、鳴った。
戸が人ひとりぶん動いて、そのまま外側へ大きく開いた。
光と風が、いっぺんに入ってくる。埃が、光の中を流れて、外へ出て行く。
湿った匂いが、一緒に追い出されていく。
帙の上で、紙が一枚だけ、めくれて戻った。昼の光が、帙の背をひととおり撫でていった。
足元で、白猫が言った。
「よかったじゃない」
爺さんは、戸口と風窓を見比べている。
「明日も、開けますわい」
裏と表と、両方が開いている。風の道が、ようやく一本になった。
「開けると、覗きに来ますが」
埃の帯が、戸の外へ抜けていく。
「……見たいと言う者がおるうちは、まだ、この書は生きておりますでな」
俺は、手記を差し出した。
「お預かりしていました」
爺さんが、両手で受け取った。
「たしかに」
手が、軽くなった。
返しに来て、返した。それだけのことに、ずいぶんかかった。
来るぞ、と思った。
充実度0%。
……動かなかった。
「壊れたか」
「壊れてないわよ」
白猫は、俺の顔も見ずに言った。
……そうか。
俺の用事は、済んだ。
夕方、戸の開いた蔵の前に、あの男が最後に来た。中を覗くでもなく、開いた戸口に立っている。少し離れて、手代が縄尻を握って待っていた。
風が、蔵の中から外へ抜けていく。男の袖が、そちらへ揺れた。
「……乾きますな」
爺さんが、敷居の内側で頭を下げた。
「お売りできませんな」
「さようですか」
それだけ言って、男は深く頭を下げた。両手を、膝の前で揃えて。
「いい蔵になりましたな」
それから、俺のほうを向く。
「お返事は、いつでも」
撤回しなかった。頭を上げたときも、声の高さは同じだった。
俺は、答えなかった。
荷車が二台、通りの向こうへ出て行った。縄尻を握った背中も、一緒に行った。
通りが、急に広くなった。
爺さんが、蔵の奥を指した。
「席は、そこですわい」
帙の山が片側へ寄せてあって、そこだけ床が空いている。戸からも風窓からも、光の届く場所だ。
タニアが前に、いちばんいい席、と言っていたやつだ。
「もう読まなくていいから、座ってれば」
タニアが、呆れた声で言う。
「……読めなくとも、構いませんでな」
手が、膝から離れなかった。
昨日、俺が下げるのに使った三つのうちの、ひとつだった。
充実度98%。
……悪い。俺、そこには座れない。
誰も、驚かなかった。理由も訊かれなかった。
「行っといで」
タニアが、そう言った。
爺さんは、戸を閉めなかった。
開いたばかりの戸口で、振り返る。
「――爆ぜろ、俺」
道は、昨日おぼえた。白猫が、横に並んで走った。
土がまた降ってきた。
昨日と、同じ味がした。
帰り道、リゼが横に並んだ。
殴る相手が、最後までいなかった。
けど、顔がないってことは、どこかにいるってことだ。
「次はそれを見に行く」
「はい」
「遠出になるわよ。日当、出るの?」
出ない。
町へ戻ったら、蔵の戸が、開いたままだった。
奥の席が、こっちを向いていた。
俺が出て行ったときは、向いていなかった。
充実度8%。
「――おい。今の、誰の仕業だ」




