ep035「幸せを捨てに行った俺、この町に捨て場所がなくて爆ぜた」
充実度は、57%のままだった。
寝れば下がると思っていた。
そんな都合のいい呪いなら、俺はとっくに幸せになっている。
まだ返事をしていない。爺さんにも、あの男にも。
蔵の裏手へ回ってしゃがんだ。人ひとりが横向きに歩ける幅しかない、日の差さない一間だ。朝の石は冷たくて、壁に背を預けると、その冷たさが外套ごしに来た。
風窓は、開いたままだった。
心張り棒は、昨日俺が置いた場所にそのまま置いてある。
誰も、戻していない。
風窓の下の埃の輪郭が、昨日より崩れていた。
母屋のほうで戸が開いて、井戸の釣瓶が二度鳴った。
何も言われなかった。俺も、訊かなかった。
膝に、白猫が上ってきた。前足を揃えて、俺の顔を見上げる。
「下げてきなさい。今日中に。じゃないと明日どうなるか分かったもんじゃないわよ」
「分かってる」
「分かってるって顔してる人、だいたい分かってないのよね」
うるさい。
下げるあてなら、ある。前の世界の在庫は、まだいくらでも残っている。
膝の埃を払って、立った。通りへ出るには、宿の前を通る。
返事をしに行くわけじゃない。ただの道順だ。
宿の前で、荷車が二台になっていた。石畳には、昨日と同じ掃き目が入っている。
筵をかけて、縄を締めている。人足が縄尻を引くたび、筵の角が跳ねた。
戸口から、あの男が出てきた。深く頭を下げて、両手を膝の前で揃える。
返事は、訊かれなかった。
急かさない男が、いちばん急かしてくる。だから、俺のほうから訊いた。
「あんたの言う『うち』ってのは、どこだ」
「私の店です」
そこで、言葉が一度止まった。少し考える顔をしてから、続ける。
「もっとも、私は預かって、お渡しするだけの者でして。渡した先が、そのあとどこへ運ばれるかは、存じません」
「会ったことがないのか」
「……はい。一度も」
少し離れたところで、毎日、爺さんの家へ来ている男が縄を締め直していた。
俺は歩き出した。
訊いてしまった、と思った。訊くというのは、半分は考えているということだ。
殴る相手がいない、どころじゃない。
この取引には、顔がひとつもない。
裏路地へ曲がった。
人のいないほうへ曲がって、背中を丸めて、いちばん安いものを選ぶ。惨めになるのにも手順があるのは、我ながらどうかと思う。
日の当たらない側の石は濡れていて、腰を下ろすと尻から冷えた。頭の上には、誰かの家の布が干してある。乾く見込みのない場所に。
荷の底で角の潰れた木の実を出して齧った。硬い。味もしない。
教室の隅と、誰も座らない隣の席と、返事のない挨拶。
57%が44%になった。
44%が28%になった。
いいぞ。もっと惨めになれ。
そこで、誰かが黙って隣に腰を下ろした。名前も知らない男だった。
何も言わない。挨拶もしない。俺の顔も見ない。
膝に肘をついて、路地の先をしばらく眺めていた。少ししてから、立って行った。
それだけだ。
それだけなのに、数字は28%で止まった。
「止まった」
「あら」
白猫は、それきり何も言わない。
この町には、惨めになる場所が、もう残っていない。
もう一度やるなら、町の外まで行くしかない。
日が傾いていた。爺さんに読ませるほうが、先だ。
蔵の中には、風窓から夕陽が斜めに入っていた。光の帯の中で、埃が上へ下へと動いている。
紙と革の匂いが、昨日より軽い。半分だけ通った風でも、匂いは変わるものらしい。
爺さんは帙の山の前に座って、一冊ずつ表を返していた。撫でるというより、確かめる手つきだった。
戸口にリゼが立っていた。
「朝から、様子がおかしかったので」
それきり、動かない。
俺は荷から手記を出した。
「爺さん。読むから、聞いてくれ」
爺さんの手が止まった。顔は上げないまま、開きかけた帙を膝の脇へ置く。
渡り人の字だ。この世界で読めるのは、たぶん俺しかいない。
声に出して、訳しながら読んだ。訳が追いつかないぶん、声が半拍ずつ遅れる。それでも、途中で口を挟まれはしなかった。
「書は、蔵が守るにあらず。手が守るなり。……風を入れる手が絶えぬかぎり、書は生きておる」
頁から顔を上げる。
「な。あんたの話だろ」
爺さんは、しばらく黙っていた。膝の上で、指が一度だけ動いた。
通った、と思った。
それから、頭を下げた。両手を、膝の前で揃えて。
「手が守る、と書いてあるのでしたら」
顔が上がる。夕陽が、白髪の縁を薄く光らせた。
「わしには、読めませんでな」
風窓から入った風が、俺の手元で頁の端をめくった。
「では、あなたが、お持ちください」
俺が持ってきた言葉が、そのまま俺を指していた。
「俺は、返しに来たんだ」
「存じております」
声は高くもならず、低くもならない。
「――そのうえで、申し上げております」
言い返す材料は、あった。使った。効かなかった。
充実度63%。
「じいちゃん」
いつのまにか、タニアが戸口の内側に立っていた。
「それ、売るのと何が違うのよ」
爺さんが、孫のほうへ向き直る。
「代々というのは、この家が持つことでは、ありませんでな。読める手へ、渡すことですわい」
タニアは、何も言わなかった。
黙って立って、蔵を出て行った。俺のほうは、見なかった。
足音が遠ざかって、あとには紙の匂いだけが残った。
戸口のリゼは、動かないままだった。光の帯が、さっきより床に近いところまで下りている。
爺さんが、俺に向き直った。
「あなたにしか、できませんでな」
……本だけ買っても私には読めませんので、と言った男と、同じことを言っている。
敵と味方が、同じ理由で俺を欲しがっている。
前の世界で、俺の代わりがいなかったことは、一度もない。
充実度98%。
――そうか。俺、今、幸せなのか。
明日、この町から、渡り人の物がまとめて出て行く。
この家のぶんだけが、俺の荷の中にある。
考えるより先に、足が出ていた。
俺は走った。荷は、置いてこなかった。
蔵の戸を抜けて、母屋の脇を抜けて、通りへ出た。石畳を蹴ると、靴の底が一度だけ滑った。
市帰りの荷。荷車の轅。子供。犬。
全部、避けた。
人類最強の肉体を、誰にも当たらないためだけに使う。こんな使い方をしたのは、初めてだった。
背中で、声がした。
「ミツルさん」
呪い屋の足で追いつけるわけがない。それでも、声だけは追いついてきた。
「人のいないほうへ」
離れてください、じゃない。人のいないほうへ、と言った。
それでいい。
外套の内側から白猫が抜け出て、横に並んだ。町の灯が背中で小さくなって、土と草の匂いに変わる。
足音は、自分のぶんしかしなかった。
畑の切れたところで、止まった。
振り返らない。
町の灯は、まだ見えている。ここなら届かない。
息を吸って、止めた。
爆ぜた。
音が、内側から外へ抜けていく。地面が一度、下から突き上げた。
耳の奥が鳴って、そのあと、静かになった。
煙が上がって、土が服にかかって、それだけだった。
落ちてきた土が、肩の上でぱらぱらと鳴る。
誰も吹き飛んでいない。何も壊れていない。
草が円く倒れているだけの、ただの窪みがひとつ。
服は焦げた。外套だけが、焦げていない。その内側で、借り物の一冊も、無事だった。
少し離れた草の上に、白猫が座っていた。何も言わなかった。
膝に手をついて、煙が薄くなっていくのを見ていた。
「ミツルさん」
声は、すぐうしろにあった。
「さっき、上がってましたね」
……ああ。
「――あれは、下げてよかったんですか」
充実度0%。
俺は、答えなかった。




