ep034「敵を殴る理由を探しに行ったら、俺ごと買われそうになった」
朝いちばんに、タニアが俺の腕を引いた。
「返しに行くわよ。全部」
軒下の包みは、大人が二人がかりでも一度に運べる量ではなかった。
夜露が乗っている。紐は、どれも解かれていない。
いちばん下の包みだけ、紙がふやけていた。
断られた物まで、この家では湿るのか。
「爺さんは」
「寝てる」
それが答えだった。
昨夜の言葉に、俺はまだ何も返せていない。
「三度に分けて運ぶ」
「一度で持てるでしょ」
持てた。
この町、俺の使い道が完全に決まってきてるな。
宿の前の石畳は掃き清められていた。
その脇に、荷を積む荷車がもう横づけされている。
荷台は空だ。人足が二人、荷車の轅に腰かけて待っていた。
戸口から、毎日うちへ来ている男が出てきた。
深く頭を下げて、両手を膝の前で揃える。
「お納めください。お返事は、いつでも」
押し返そうとした手を、両手で受け止められた。
そのまま、腕ごと押し返された。
声も張らない。顔色も変えない。ただ、丁寧に押し返される。
人類最強の肉体が、丁寧さに負けた。
断ることすら、断られる。
俺たちは、来たときと同じ荷物を抱えて帰った。
昨日は同じ腕で長持を運んで、礼を言われた。今日は同じ腕で包みを運んで、受け取ってもらえなかった。
充実度16%。
昨夜から、一つも動いていない。
タニアが、道の石を蹴った。啖呵の相手が、どこにもいない。
外套の内側で白猫が伸びをした。
「呪い屋なら、朝いちで出て行ったわよ」
昼。市の外れに、呪い屋の荷馬車が止まっていた。
幌の陰でリゼが帳をつけている。
すぐ横では、他所から来た行商の馬がしきりに鼻を鳴らしていた。
「朝から、方々に当たっておりました」
頼んでいない。礼を言う間もなく、帳が一枚めくれる。
「あの方の名は、大陸のあちこちで出ています。それも、ずいぶん前から」
「悪い噂は」
「値切った話が、一件も出てきません。買い叩いた話も、支払いを渋った話も、脅した話も」
帳が閉じた。
「悪い話が、ひとつもありません」
殴る理由を探しに来たのに、探すほど減っていく。
乾いた笑いが、喉の途中で止まった。
こっちは確かめに来たのだ。確かめて、負けた。
「ただ――」
リゼが顔を上げた。
「あの方が買った物が、そのあと、どこの市にも出てきません」
一拍おいて。
「集めている誰かが、います」
外套の内側で、白猫が身じろぎをした。
「買った先から仕舞い込むのねえ。うちの局にもいるわ、資料を抱えて死蔵する人」
「その死蔵してる奴、今どこにいる」
「……知らないわよ、そんなの」
引っかかりはした。が、そいつは今日の敵じゃない。
顔を上げると、タニアが荷馬車の脇まで来ていた。
何も言わず、顎で蔵のほうを示す。
何か思いついた顔だった。
蔵の裏手は、通りから見えない狭い一間だった。
人ひとりが横向きに歩ける幅しかない。
タニアが壁の高いところを指した。
「風窓。じいちゃんが言ってたでしょ、片側だけじゃ抜けないって。――だから、開けないの」
筋は通っている。昨夜と同じだ。あの人は、いつも正しい。
「あと、これ。じいちゃんの手じゃ、動かない」
心張り棒に手をかけると、指の腹に埃がついた。
長いこと外していない棒だ。木が痩せて、貫にきつく噛んでいる。
「あたしは、半分でも通ったほうがましだと思う」
正しくない。それは俺にも分かる。
分かるが、この家で俺が判断していい場所は、どこにもない。
俺に割り当てられているのは、力しか使えない仕事だけだ。
力任せに押せば、棒より先に建具が割れる。
息を止めて、肩から先の力を抜いた。指を三本だけ使う。
人類最強の肉体を、生まれて初めて、そっと使った。
棒は、音も立てずに外れた。
風窓を押し上げると、斜めに落ちた光の中で埃が動いた。
蔵の内側で、帙を結んだ紐が一本、わずかに揺れる。
風が、半分だけ通った。
「これで、じいちゃんが表の戸を開けたら、通る」
爺さんには、言っていない。娘のほうの権限で、俺は共犯になっている。
タニアが中を見に、表へ回っていった。
あと半分は、俺の力ではどうにもならないところにある。
風の来るほうへ、俺は荷から手記を出して開いた。
……そういえば、こいつも借り物だった。
毎朝、爺さんは書に風を入れていた。一冊ぶんだけ、真似をする。
壁に背を預けて座ると、膝の上に白猫が乗ってきた。
渡り人の字が、頁の上で光を拾う。
前世の国の字だ。この世界で読めるのは、たぶん俺しかいない。
第五段。声に出して読んだ。
「書は、蔵が守るにあらず。手が守るなり。……風を入れる手が絶えぬかぎり、書は生きておる」
これだ。
守るというのは、持ち続けることじゃない。手を動かし続けることだ。
爺さんに読ませればいい。俺が読んでやればいい。これは、爺さんの話だ。
頁を繰った。第五段には、続きがあった。
「されど、わしはこれを手放すのが、こわい」
声が、勝手に低くなる。
「持っておるあいだだけ、わしは、まだ何かの役に立っておる気がするゆえ」
……爺さんも、これを抱えているのか。
抱えていて、それでも自分から売ると言った。
だから余計に、この頁を読ませてやりたい。
膝の上の白猫が、顔を上げた。
「ねえ、ミツルくん。それ――」
「なんだよ」
「……ううん。今のは、業務外だわ」
いつもの調子が、途中で切れていた。
まあいい。今は爺さんだ。
日暮れ。宿の前の通りは、朝と同じ石畳だった。
窓に灯が入りはじめて、表通りの人出が引いていく。どこかで、戸を閉める音がした。
朝は空だった荷車に、荷が載っていた。
その脇に、爺さんが立っていた。
俺より先に、話をつけに来ていた。
セルヴァンが素手で包みの結び目を確かめている。少し離れて、毎日うちへ来ている男。
タニアが足を止めた。店じまいの途中だったらしい呪い屋が、通りの端で手を止めている。
膝から外套へ戻った白猫は、それきり何も言わない。
俺は荷に手を入れた。読ませるつもりだった。
「ときに――」
俺より先に、爺さんが言った。
「お預けしてある、あの書のことですが。あれも、一緒に」
荷の中で、俺の手が止まった。
セルヴァンの手も、止まった。
「おそれいります。あの書は、いま、どちらに」
爺さんが俺を見た。隠す理由がないから、言ったのだ。
……見ないでくれ。
全員が、俺を見た。
「ああ」
男が言ったのは、それだけだった。
責める顔も、勝った顔もしない。
荷車の縁に置いた手を、しばらく見ていた。
それから、顔を上げた。
「では、こう申し上げましょう」
夕方の声も、朝と同じ高さだった。
「あの書は、あなたがお持ちください。そのうえで――あなたが、うちへ来てください」
言葉が、耳の中を二度通った。
書は、俺が持っていていい。そのうえで、俺が行く。
「本だけ買っても、私には読めませんので」
「……お返事は、いつでも」
他人に必要とされたことが、たぶん、生まれて初めてだった。
……湿った蔵からは、本が出る。この家には、金が入る。
俺は返さなくていい。読み続けていい。
この男の言うとおりにすれば、全部うまくいく。
充実度57%。
――俺は今、それを、いいなと思っている。




