ep033「蔵の見張りに立った俺、見物人を倍にして本を黴びさせた」
朝いちばんに、俺は蔵の戸を開けた。
殴る相手がいない。買う金もない。爆発は、この場合いちばん役に立たない。
――だから俺は、開けた戸の前に、立った。
返せなかった手記は、荷の底に入ったままだ。
戸の内側から、外より一段冷たい空気が出てきた。紙と革と糊の匂いに、うっすら青いのが混じっている。
それが黴の匂いだと、俺は昨日まで知らなかった。
棚の下に積んだ一冊の小口が、少し開いていた。閉じているはずの本だ。指で押すと戻って、離すとまた開く。
「湿気を吸うて、膨らんでおりますわい」
爺さんが帙を解いて、書を一冊ずつ平らに寝かせていく。タニアがそれを日陰へ運ぶ。
「日向に出せば早いだろ」
「褪せます」
二人同時だった。
急いで乾かす方法だけが、ない。あと三日だというのに。
蔵の隅には、書を寝かせた長持がいくつも残っていた。二人がかりで一つずつ運んでいたら、日が暮れる。
俺は片手で抱えて、全部外へ出した。
爺さんが手を止めて、丁寧に頭を下げた。
タニアのほうは、短かった。
「助かる」
充実度32%。
運ぶ物がなくなると、俺に残った仕事は、立つことだった。
構えない。腕も組まない。威張れば、この町の連中がそのまま敵になる。
ただ立って、覗き込んでくる奴に一言だけ言う。
「見世物じゃない」
言ったそばから、子供が三人増えた。
人が足を止めるのは、波に似ている。一人が止まると三人が止まり、三人が止まると十人になる。
昼前には、蔵の前の人だかりが昨日の倍になっていた。
《カタストロフ》様が蔵の前に立っている。それが、この町の新しい見物になったらしい。
訂正しようとも思わなくなった。一日で一段、諦めが進んでいる。
通りの向かいでは荷馬車の幌が上がって、呪い屋が飛ぶように売っていた。
「動かないでください。売れてるので」
「俺は看板か」
「よく回る看板です」
俺の名前で儲けているのは、この呪い屋だけだ。こっちには一銭も入ってこない。
爺さんが蔵の奥から出てきて、天井の近くを指した。
「風は、片側だけ開けても抜けませんでな。裏の風窓と両方で、はじめて通ります」
なるほど、と言いかけて、俺は自分の足元を見た。
開いた戸。その真ん中に、俺。
俺が立っているのが、その通り道だった。
戸を閉めた。閉める手が、間の抜けた重さだった。
充実度22%。
人だかりから離れて、市へ出た。俺がいると邪魔だからだ。
露店の棚が、ところどころ空いていた。畳んだ跡が、地面に四角く残っている。
昨日この通りでは、木槌が新しい店の釘を打っていた。
今日は、釘を抜く音がしていた。
一日だ。
半月前、この市は「九割は鍋の蓋」と言われた。
いまも祀られている本物の蓋には、昨日より高い値札がついている。
誰も買っていない。
「あの方が、偽物を一つも買っていないからです」
呪い屋が言った。
「値がつくのは、あの方が手に取った物だけ。……あの方が発つ頃には、この市は畳まれています」
通りの端の家で、戸口に人が出ていた。荷は小さい。本物を一つだけ持っていた家が、その一つを売っているところだった。
受け渡しは、静かだった。声を張る者がいない。人も集まらない。終わっても、誰も歓声を上げない。
外套の内側で白猫が鼻を鳴らす。
「あら、いい仕入れ先ねえ。うちの部署にもほしいわ、ああいう静かな人」
「お前の部署の話は今いい」
遠くから見ていたつもりだった。
向こうが、先にこちらを見た。
男は、まっすぐこちらへ歩いてきた。
五十がらみ。きちんとした外套。昨日の男が、少し下がったところに立っていた。
俺の前で足を止めて、頭を下げる。
「セルヴァンと申します。お噂は、この町のどこででも」
声を張らない男だった。
「お会いできてよかった。……この町に本物があると知れたのは、あなたのおかげです」
皮肉ではなかった。挑発でもない。心から言っていた。
言い返す言葉が、出てこない。
充実度41%。
……おい待て。俺は今、この男と揉めてるんだぞ。
セルヴァンは受け取ったばかりの一冊を、その場で検めはじめた。
手袋をしていない。指の腹で小口を撫で、光のほうへ傾けて透かす。頁は全部はめくらない。それで終いだった。
「手の脂は嫌われますが、手で触らんと、湿りが分かりませんので」
値は一度だけ言って、相手が渋っても繰り返さなかった。上げも、下げもしない。
「あなた方より、私のほうがこの本を守れます」
「根拠は」
「湿った蔵では、守れません」
それは、俺が今朝この目で見たことだった。
反論の材料が、自分の側に一つもない。
「あんたが集めてるのか」
「いいえ。私は、預かるだけの者でして。集めておられる方が、別におります」
引っかかった。が、そこで話は進まなかった。
人だかりに気づいたらしい。タニアが荷を抱えて寄ってきた。蔵の支度の買い物に出ていたのだろう。
セルヴァンは、タニアにも同じ深さで頭を下げた。
「文庫番のお宅には、まだ一冊、いちばんの物がございましょう」
タニアの口が、半分開いたまま止まった。
俺の荷の底が、急に重くなった気がした。
「その話でしたら、うちの荷も見ていってくださいまし。護符の類でしたら、この市でいちばん揃っております」
呪い屋が横から入って、商いの話へ折り返す。セルヴァンは丁寧に断って、タニアの止まった一拍には何も気づかなかった。
殴れないのも、買えないのも、朝から分かっていた。残ったのは、蔵を乾かすことだけだ。
人類最強の肉体の、いちばん地味な使い道である。
「三日後に発ちます。それまでに、ご返事を」
一拍おいて、セルヴァンは付け足した。
「……もっとも、私は誰も急かしませんが」
「じゃあ、何が急かしてるんだ」
男は少し考えた。
「時候と、湿気でしょうな」
夜。蔵の中は行灯ひとつだった。
この時刻なら、誰も覗きに来ない。戸は開けられる。開けたところで、風は湿っていて乾かない。
だから俺は、先に言った。
「三日で乾かす。俺が全部やる。長持でも棚でも担いで出すし、風窓も直す。三日あれば、この蔵は乾く」
頼まれてもいない。それでも、口に出したら少し手応えがあった。
爺さんは、しばらく黙っていた。
「……売ろうと思っております」
行灯の火が、傾いた。
「爺さん」
「この蔵では守れませんわい。今日一日、風を通したところで、明日はまた閉めますでな」
開けられない理由は、何一つ消えていない。
「三日後に、この町から渡り人の物がまとめて出ていきます。売らなかった家だけが、本物を持っておる唯一の家として残りますわい」
「……そうなれば、あの戸は、この先ずっと開けられませんな」
爺さんは俺の顔を見た。
「守るというのは、この家が持ち続けることでは、ありませんでな」
弱った声ではなかった。諦めた声でもない。判断した人間の声だった。
膝の上で白猫が伸びをした。
「筋が通ってるわねえ。いちばん嫌な形で」
戸口で、呪い屋が柱に寄りかかったまま、何も言わない。
「じいちゃん」
タニアが入ってきた。
「代々って、何だったのよ」
爺さんは答えなかった。
タニアは出て行かなかった。灯りのそばまで来て、そこに座り込んだ。
「……あたしは、売らないから」
誰に言うでもない声だった。爺さんの背中に落ちて、そのまま床に転がる。
俺は、何も言えない。
値をつけさせたのは、俺だからだ。
口を出せば、また余計に壊れる。
充実度24%。
「ときに、《カタストロフ》様」
芯が、短くなっていた。
「お持ちいただいている、あの書のことですが。――あれも、お返しいただいて、一緒に、お渡ししようかと」
……返しに来た本を、返したら、売られる。
充実度16%。
朝から一日、上がって下がって、たどり着いた数字がこれだ。
一日ぶん働いて、1%。




