ep031「川止めで一日足止めされた俺、雨宿りしていただけなのに、なぜか充実度が上がった」
返しに行くと決めた本を、まだ返せていない。
川が濁って、渡し舟が出ないからだ。
ゆうべの雨だった。ピニョを発ったその晩、街道の脇で毛布にくるまっているあいだ、雨はずっと降っていた。それが上流のどこかで集まって、朝には川が茶色く膨れていた。
濁った水は、底が見えないぶん、速く見える。
渡し守は長い棒を水へ突き立てて、途中まで沈めたところで引き上げた。
濡れた跡は思っていたよりずいぶん上まで来ていた。
「今日は出せねえ」
それだけだった。
渡しにあるのは、馬と荷車をまるごと乗せる平田舟だ。水の高い日は、人ひとりでも渡さないという。
「人だけなら、渡れそうに見えるんだが」
「見えるだけだ」
取りつく島がない。
俺たちは荷馬車を軒下へ寄せ、馬を差し掛けの柱に繋いだ。宿を取る金はない。屋根があるだけましだ。
……植えた奴を探すも何も、川一本渡れないんじゃ、どこへも行けない。
川べりの掘っ立て小屋には、先客が数人いた。入口には簀の子が敷いてあって、泥だらけの足跡がいくつも重なっている。
それぞれ荷の陰に座って、誰も喋らない。かといって、誰も帰らない。
この顔は知っている。前世で、止まった電車のホームに立っていたときの顔だ。再開の見込みなしと流れているのに、誰も改札を出ていかないやつ。
帰ったら負けだと、たぶん全員が思っている。
「この増水、天候調整部門の仕事よ」
外套の内側から、白い頭だけ出したフェリ課長が言った。濡れるのを心底嫌がって、俺の懐から出てこない。
「ダイヤが乱れると、うちの部署に苦情が回るの。所管が違うのに。有給がまた一日流れるわ」
「……神さまの世界にも、振替輸送はないらしい」
「あったら私が乗ってるわ」
「課長なんだから、上に文句のひとつも言えないのか」
「言ったわよ。『検討します』で終わったわ」
「こっちの世界とまるで同じだな」
「同じなの。上に行くほど同じなの」
焦げも汚れもつかない妙な外套は、濡れはする。ただ、乾くのが妙に早い。おかげで猫の寝床には向いているらしかった。
昼を過ぎても、水は引かなかった。
することがない。ないと、余計なことを考える。俺は渡し守のところへ戻って、言ってみた。
「あの舟、俺が担いで渡ろうか」
渡し守は俺の顔を見て、それから舟を見て、また俺の顔を見た。
「担げるのか」
「たぶん」
「たぶんで人を沈めるな」
そして、真顔で首を横に振った。
「……ですよね」
人類最強の肉体の、いちばん無駄な使い道である。
小屋へ戻ると旅人の一人がこちらを見ていた。目が合うと、何も見なかった顔で荷にもたれ直す。
……見てたな。今の。
夕方になって、リゼットが荷を解いた。
膝の上に開いたのは、あの手記だ。返しに行くと決めた、借り物の本。
筆を執って、一字ずつ、形をなぞりはじめる。
「……あんた、それ、読めないだろ」
「読めません」
あっさり言われた。
夜になっていた。旅人たちは荷にもたれて眠り、雨は屋根を叩きつづけている。雨の音は、屋根があると急に遠くなる。
白猫は俺の膝で丸くなって、寝入りばなに一言だけ呟いた。
「……残業代」
そのまま鼾になった。
リゼットの筆先が紙に落ちる。線の向きと払いの角度だけを、自分のカルテへ移していく。読めない字を、絵として写しているのだ。返す物は返す前に写す。この人の手癖だった。
読んでやる係は俺だ。俺が声に出し、リゼットが形を写す。すでに読んだところの、二度目の読み下しだった。
旅人が寝ているので、声はできるだけ低くした。低くすると、自分の声が知らない男の声に聞こえる。
「……次」
「待ってください。払いが、まだ」
「そんな細かく写して、意味あるのか」
「あります。意味は、あとから分かるので」
筆が止まらない。
「あと三頁」
早口だった。呪いの話をしているときと同じ速さだ。
「もう夜だ。明日にしろ」
「明日は舟が出るかもしれません」
「出てほしいんだよ、こっちは」
「私もです。出てほしいので、今夜のうちに写します」
筋は通っている。通っているのがなんだか腹立たしい。
……返しに行くと決めたのは俺だ。惜しくないと言えば嘘になるが、決めたのは俺だ。
それなのに、いちばん惜しんでいるのは、こいつなんじゃないか。
頁を繰る。順に写していって、そこに行き当たったのは、ただの成り行きだった。
あ、と口の中で音がした。
この頁だ。峠の上の工房で、レンツが匙を投げたとき、隣でこいつが小声で言った。
「こういう呪いを、前に一度だけ、見たことがあります」
あのときの声が、そのまま耳の底に残っている。
リゼットの手が、一拍だけ止まった。
それだけだった。すぐにまた筆が動きはじめる。
俺は木の実を割って、半分だけ差し出した。
「なあ、あんた、あれ――。前に見たって、どこで」
言いさして、口を閉じた。
差し出した手だけが行き場をなくして残った。
……理由は、自分でもよく分からない。
いや、分かっている。分かっているが、言わない。
屋根を打つ音がひと呼吸ぶんだけ大きく聞こえた。
俺の膝には猫がいて、リゼットの膝には手記がある。あいだに割った殻がひとつ落ちていた。
リゼットは、俺が途中でやめたのに気づいていた。気づいたうえで、何も訊かなかった。差し出した木の実を受け取って、また頁に戻る。
受け取るとき、指も目もこちらへは向かなかった。
訊かない、というのが、この人の距離の取り方だと、俺はもう知っている。
だったら俺も、訊かない。
雨の音と、筆が紙を擦る音だけが、小屋の中でしていた。
充実度39%。
……は? おい。誰も助けてないぞ。誰にも礼を言われてない。
むしろ今日は一日、川に止められて、一歩も進んでない。宿代が浮いたのだって、宿がないからだ。
損しかしてないのに、なんで上がるんだ。
……前にも、こんなことがあったような気がする。
いや、気のせいだ。
雨の音が、少しずつ細くなっていった。
明け方、雨が上がった。
目を覚まして、先に気づいたのは音のほうだった。川の唸りが、ひと晩で、ずいぶん低くなっていた。
外へ出ると、霧の向こうで渡し守が舟を舫い直している。棹の先で水を測って、今度は何も言わなかった。言わないのが、出せる、ということらしい。
馬が鼻を鳴らした。こいつも一日、暇だったらしい。
リゼットが手記を閉じた。表紙の埃を払って、丁寧に荷の底へ戻す。
「……あと、一頁でした」
あと一頁で、写し終わるところだった、ということだ。
あと少しで、これは返さなきゃいけない。返せば、もう読めない。分かっている。
……それでも、返しに行く。
渡し賃は、木の実三つで話がついた。呪い屋が値切ったからだ。
「あんた、渡し賃まで値切るのか」
「相場が分かりませんので。分からないときは、まず下げます」
「商人の鑑だな」
「恐縮です」
「木の実三つで川が一本渡れたな」
「はい」
「あんた、いま楽しかっただろ」
「顔には出ていないはずですが」
「出てない。出てないのに分かるんだから、質が悪い」
荷馬車ごと平田舟に乗った。馬が板を踏むたび、舟がわずかに沈んで、また持ち上がる。
棹が川底を突く。昨日は底の見えなかった水を、ゆっくり横切っていく。
振り返ると、掘っ立て小屋の屋根は霧に紛れて、もう見えなくなっていた。
次の町は、カスタン。蔵の一番いい席を空けて待っていると言った娘がいる町だ。
向こう岸に舳先が着いて、板を踏んで下りた、その直後だった。
充実度42%。
「……いま、上がりましたね」
小声だった。
「……何もしてない。川を渡っただけだ」
「記録します」
「何を」
「"何もしていない"と」
一日、足止めを食っただけの一日だった。
……おい。なんで上がった。




