ep030「町ぜんぶの厄を引き受けると言った俺、火祭りで、そっくり町に返してやった」
「器は、二つだ」と言われて、俺は答えられなかった。
この町の厄を全部引き受けると言ったのは、俺だ。
だから朝が来て、俺は手記を閉じた。
理屈でも術でもない。自分に向けるのでもない。
残った道は一本しかない。今日、それをやる。
枯らすには、植えた者が自分の願いを口に出すしかない。借り物の本にはそう書いてあった。
つまり、町の連中に思い出させればいい。方法は一行で済む。難しいのは、そのあとだ。
小屋を出ると、町じゅうが火を運んでいた。
辻のかがり火が一つずつ落とされ、種火が壺に納まって町外れへ運ばれていく。
空き地には丸太を組んだ台が立っていた。祭壇だという。あの空き地の三度目だ。
「繁忙期の締めね」
肩の上で白猫が前足を舐めた。
「年に一度の棚卸しよ。要らないものを帳簿から落とす日。どこの職場も同じねえ」
「棚卸しで人を落とすな」
火番小屋の戸口に、ノエラが手ぶらで立っていた。
火挟みも火掻き棒も朝のうちに持っていかれ、代わりに畳んだ白い衣が戸の内側に置いてあった。
「夕方には祭壇のそばに立ってろって」
「胡桃、あと九つだぞ」
「なんの話」
「金の話だ。今はそれどころじゃない」
ノエラは笑わなかった。行くのをやめるとも言わなかった。
俺も、やめろとは言わなかった。今日は、言葉で勝つ日じゃない。
外套の前を閉じて、坂のほうへ顎をしゃくった。
「その前に、峠へ行く。……借りを一つ、返しに」
峠の上の工房は、前と同じだった。
紙は角を揃えて積んであり、聞こえるのは紙を裁つ音だけだ。
レンツは俺を見て、刃を置いた。
「今日は、お買い物ですか」
「ついでだ。俺の呪いも、あんたが請け負えるか」
口に出してから、間の抜けた注文だと分かった。
レンツは断らなかった。断る前に、俺の胸のあたりをしばらく見ていた。
音の止まった部屋で、それは長かった。
「……あんたの呪いは、請け負えません」
「値の問題か」
「いいえ」
前掛けで指を拭って、低い声で続けた。
「これは、誰の手も入っていない。私に、断てるものではない」
リゼットが荷の紐を握ったまま動かなくなった。
「……こういう呪いを、前に一度だけ、見たことがあります」
それきり、口を閉じた。
肩の上で白猫も黙った。ふだんなら三倍は喋る場面でだ。
「……ミツルくん。今日、風が北ねえ」
「天気の話、今しなくてよくないか」
「知ってるよ」
俺は肩をすくめた。
「俺のは、特別製だ」
レンツは何も返さなかった。
吹き飛ばすのは簡単だ。だが吹き飛ばしても、町じゅうの戸の札は残る。憎んだのはこの男じゃない。町の連中だ。
殴る理由は、この男には立たない。
そのうえ――町が厄を引き取れば、商売はもう成り立たない。
工房を出るとき、レンツは帳面を閉じていた。
峠を下ると、麓で火が点きはじめていた。篝が一つ、二つ、三つ。
「始まったか」
夜の町は、炎でできていた。辻という辻の火が、残らず空き地の一点に集まっている。
祭壇の炎が高く上がり、屋根も顔も赤く塗られていた。
三日いて初めて見る、この町でいちばん明るい夜だ。
その明るさの真ん中で、人を焼く算段がついている。
祭壇の脇に、白い衣のノエラが立たされていた。手には何もない。
足元には剥がされた札が積んであった。三年ぶんだ。
俺はノエラの隣に立った。人垣がざわついた。
「二つ目の器だろ。文句はない」
町役の男が口を開きかけた。先に言った。
「俺が自分で注文したことだ」
逆らう筋がない。だから逆らわない。
俺は炎を背にして、町のほうを向いた。
「焼く前に、一つ聞かせろ」
赤く照らされた顔が並んでいる。
「あんたたち、三年前、この娘に何を願った」
誰も答えなかった。炎が爆ぜる音だけがした。
答えないんじゃない。覚えていないんだ。
「思い出せよ。あの札に、何を願ったのか」
俺は足元の山を指した。
「――覚えてないなら、俺が代わりに言ってやる」
人垣の後ろで、声がした。
「……あの娘は、火を持ってきたんじゃない」
昨日、俺に礼を言った女だった。
「三年前、いちばん先に火を消しに走ったんだ。うちらは、それを見なかったことにした」
その隣で、子供が親の袖を引いた。
「火を出したのは、うちだ。父ちゃんが言ってた」
親が子供の手を掴んだ。掴んだまま、動けなくなった。
一人が言うと、次が言った。
「畑の不作を、あの娘のせいにした」
「うちの父の病だ。誰かのせいにしないと、飯が喉を通らなかった」
「次はうちの番かと、怖かった」
告発でも処罰でもない。三年怖がっていた連中が、初めて自分の口で言っただけだ。
その口が動くたび、山の札が一枚ずつ灰になった。炎に焼かれたんじゃない。火の当たっていない縁から内側へ崩れていく。
厄が燃やされるのではなく、持ち主のところへ帰っていく。
ノエラは火番の顔のまま、それを見ていた。
視界の隅で、数字が跳ねた。
充実度98%。
町ぜんぶが、初めて俺と同じ側に立っている。
「……よりによって、今か」
札の山は半分ほど残っていた。覚えていない連中の、帰る先のない厄だ。
炎はまだ高い。器を焼く火は消えていない。
……ちょうどいい。焼いても死なない器が、ここにいる。
「厄を焼くんだろう」
人垣に背を向けて、祭壇のほうへ歩き出した。
「……なら、いちばんよく爆ぜる器を、くれてやる」
走った。
背中で、火番の声がした。
「下がって」
慌てない声だった。それだけで町ぜんぶが退がった。
三年、誰にも届かなかった声だ。
札の山を踏んで、熱の芯へ飛び込んだ。
息を吸う。
「――爆ぜろ、俺」
火柱が上がった。
祭壇の丸太も、残った札の山も、跡形なく散った。
白い灰神楽が町いっぱいに降った。
降りやんだとき、燃えるものは一つも残っていなかった。
充実度0%。
灰の真ん中に、黒焦げの男が一人立っている。白目だ。外套だけが焦げていない。
しばらく、誰も声を出さなかった。
静けさの中で、金物の鳴る音がした。
ノエラが灰の中から火挟みを拾い上げていた。
火祭りは、続けられた。ただし、焼くものが変わった。
町の連中が抱えてきたのは、去年の火祭りの松の枝だった。燃やしても、誰のところへも帰らないものだ。
枝に火が入って、町がまた明るくなった。
厄を焼く祭りが火を祝う祭りに戻るのに、三年かかったことになる。
その明るさの端で、町役の男がノエラに道具を返していた。火挟み。火掻き棒。油壺。
「……もう、器はいらない」
昨日この娘から火番を取り上げ、最後まで顔を見なかった男だ。今日は、目を逸らさずに言った。
ノエラは慌てなかった。声も上げなかった。走りもせず両手で受け取って、火挟みの汚れを袖で拭う。
それだけだった。
荷馬車に荷を積み終えたころ、ノエラが来た。
「……もう、行かなくてよくなった」
灰をかぶった前髪を指で払う。
「行くって決めてたのに」
俺は返事をしなかった。返せる言葉が一つもない。
ノエラは、それでよかったらしい。
「また来て」
火挟みを提げ直した。
「今度は、厄を焼く火じゃなくて、祭りの火を見に」
荷馬車がピニョを出た。
峠の上を見ると、工房に灯りはなかった。
追う気は起きない。殴る理由は、結局あの男には立たなかった。
膝の上に、借り物の手記を置いた。
枯らすには、植えた者が自分の願いを口に出すしかない。
……植えた奴に、口を割らせればいいのか。俺の呪いを、植えた奴に。
「――それは、どこの誰だ」
あたりを見回した。
リゼットが荷の紐を結んでいる。白猫が欠伸をした。街道が後ろへ伸びている。
誰も名乗り出ない。当たり前だ。
次の町は、カスタン。
返しに行けば読めなくなる本を、返しに行く。




