ep029「町の火事を爆発で消し止めたら、犯人はあの娘にされた」
「じゃあ、やめて」と言われて、俺は一晩考えた。
三年考えた奴に、一晩考えた俺が、理屈で勝てるわけがない。
――だから、理屈はやめた。
夜が明けて、俺は黙って、娘の家の戸から札を剥がした。
三枚あった。一晩で、三枚。
ノエラは止めなかった。戸口に立って、俺の手だけを見ていた。
剥がした札を懐に押し込んで、俺は町へ下りた。
町が騒がしかった。この町に来て三日目で、初めてだ。
木を割る音。薪を積む音。荷車が石畳を鳴らして、町外れへ何度も往復していく。
その先の空き地に、薪が積み上がっていく。
あの空き地だ。
辻ごとの常火の柱にも、火番小屋の戸と同じ札が貼ってあった。
剥がす。次の辻でも剥がす。
二つ先を片づけて戻ると、最初の柱にはもう新しいのが一枚ついていた。
貼りつけた手が、路地の角へ引っ込むのが見えた。
「逃げるな。おい、逃げるなら貼るな」
角の向こうで足音が遠ざかっていく。
朝から数えて、充実度は25%から20%へ落ちていた。嫌われるのだけは、この町では順調だ。
「繁忙期ねえ」
肩の上で白猫が欠伸をした。
「町じゅう働いてるわ。ミツルくんも働いてるわね。剥がしても剥がしても湧いてくるお仕事」
「業務改善の提案があるなら聞くぞ」
通りかかった男が、俺の手の札を見て言った。
「明日で終わるんだ、余計なことをするな」
……終わるってなんだよ。何が終わるんだよ。
昼前に火番小屋へ戻ると、戸にはもう新しいのが一枚貼ってあった。
俺が手を伸ばす前に、ノエラが言った。
「剥がしても、意味ないよ」
リゼットが荷の陰から顔を上げた。
「ミツルさん。……その札、私が解いてみましょうか」
昼過ぎ。戸口の、光の入る側。
リゼットは俺が剥がしてきた札を一枚、陽にかざした。それから、札ではなくノエラを見た。
「解く前に、貼られている側を検めます」
「順番が逆じゃないか」
「逆ではありません。……ノエラさん。腕に、触れても構いませんか」
ノエラが黙って袖をまくった。
リゼットは指の背で、手首から肘までを一度なぞった。それから同じところを、もう一度ゆっくりなぞり直す。数を勘定する手つきだった。
「効いています」
「……効いてる」
「三年ぶん、抜けていません」
遅れて、腹の底が熱くなった。三年ぶん。この娘の中に、三年ぶん積もっている。
「じゃあ解けよ」
言ってから、息を吐いた。
「……悪い。八つ当たりだ」
「一枚でしたら、解けます。……ですが、明日また貼られます」
リゼットは札を畳んで、荷にしまった。
「三年ぶんは、一枚ずつでは追いつきません」
つまり、俺が朝からやっていたことを術でやっても、結果は同じだ。
物理は駄目。術も駄目。宛先を俺に向け替えるのは、昨日、呪詛師に丁寧に断られた。
残る道は一本。町の思いを変える。
方法は、昨日から一つも立っていない。
俺は荷から本を出した。渡り人の手記。借り物だ。他人の家の呪いを解くのに、借り物の本を開いている。
四つ目の一節に、こうあった。
内より生えたる呪いは、外より断つこと能わず。
これを枯らすには、それを植えたる願いを、
植えたる者みずからが口に出すよりほかに道なし。
――されど、多くの者は、己が何を願ったかを覚えておらぬ。
二度読んで、顔を上げた。
「つまり、町の連中に、自分が何を願ったのか思い出させればいいってことか」
「記録します」
リゼットが炭を走らせた。
「思い出させる、ね」
言ってはみたが、やり方は一つも浮かばない。
外で、かん、と金物の鳴る音がした。辻の火が、一つ落とされた音だった。
夕方。町は辻の火を落として回りはじめた。明日の火祭りで、火を一箇所に集めるためだという。
かがり火が一つ消えるたび、道が一段ずつ暗くなっていく。
ノエラが常火に継ぐ壺を抱えて出ようとしたところに、町役の格の男が立っていた。
「明日の火は、祭りの火で足りる」
男は俺の斜め後ろあたりを見て言った。
「……もう、火には触らんでくれ」
悪意ではなかった。段取りが一つ片づいた男の、安堵の顔だ。
最後まで、娘の顔は見なかった。
「はい」
ノエラは、それだけ言った。
三年、この娘が持っていたものは、たったそれだけだったのに。
俺は口を開いた。開いたまま、何も出てこない。
ここで俺がこの男を殴れば、この娘の居場所は本当に一つもなくなる。
男が坂を下りていくと、ノエラは壺を足元に置いた。
それから、こっちを見た。
「なんで、あんたが怒るの」
「……怒ってない」
「怒ってる」
煤のついた指を、ノエラは袖でぬぐった。
「……行くって決めてたのに。あんたが来たせいで、行きたくなくなった」
視界の隅で、数字が跳ねた。
充実度98%。
「……七十八。おい、今の一言、七十八もあったのか」
笑いは一拍で凍った。
町のど真ん中だ。辻の火は落とされ、明日の薪が積んである。
そのうえ、この町でただ一つ爆発できた空き地は、今日は薪で埋まっている。
爆発していい場所が、今日は一つもない。
動くな。走るな。
その場から一歩も動かないことを、俺は全力でこらえた。
足を止めたまま、火が落とされていく方角を見ていた。
前世の夏を思い出す。河原のバーベキュー。学年の半分が集まっていたらしい。
俺のところへは、煙の匂いだけが川向こうから流れてきた。
充実度88%。
「……我ながら、よく効く」
肩の上で白猫が伸びをした。
「ねえミツルくん。この町、火の番が、どこにもいなくなったわねえ」
風が向きを変えた。
この町はいつも焦げ臭い。だが、今日のは風上からだった。
町外れの空き地で、薪山が燃えていた。
辻の火を落として回った、その始末だ。誰かが落とし損ねた。
今日、この町から火の番を取り上げた奴らが、その日のうちに火を出した。
薪山の手前に、桶が転がっていた。ゆうべ火を貰いに来た子供の桶だ。
今夜も貰いに来る途中でこれを見て、水をかけようとしたんだろう。
子供ひとりが、いちばん先に火を消しに走っていた。大人は、まだ誰も来ていない。
ノエラが走った。
慌てない。声を上げない。走らない。
三年守ってきた作法を、この娘が破った。
俺のほうが速かった。
煙をくぐって、動けなくなっていた子供を抱え上げ、風上へ運び出す。
咳はしていた。それ以外は、どこも焼けていない。
駆けつけた女が子供を受け取って、それから俺の腕を掴んだ。
「ありがとう」
この町で誰かに礼を言われたのは、初めてだ。
昨日、この小屋の戸に札を貼って、見もせずに行った女だった。
充実度98%。
「ありがとうの一言でこれかよ。この町、どんだけ礼を出し惜しんでたんだ」
町の連中が桶を持って走ってきた。リゼットも荷を置いて、水を運ぶ手に混じった。
水をかけた端から、火は大きくなった。薪が爆ぜる音が、桶の音を潰していく。
「脂の火は、水じゃ消えない」
ノエラが言った。
「……叩き消すしかないの」
「叩き消す、ね」
俺は薪山を見上げた。
「……なら、いちばん強く叩けるやつが、ここにいる」
ノエラは何も聞かなかった。桶を抱えた連中のほうへ向き直って、火番の声で言った。
「下がって。……全部、下がって」
慌てない声だった。それなのに、誰も逆らわない。
桶の列が退がる。リゼットも、黙ってその列に退いた。
うまくいく保証はなかった。
薪山は、木を払った空き地に積んである。散らす先しかない。
それだけを頼りに、俺は燃えている芯へ走り込んだ。
息を吸う。目を閉じる。
言うことは、何もない。
爆風が、燃えている薪山ごと火を吹き飛ばした。空き地一面に、散らした。
散った端から、燃えるものがなくなっていく。
燃えるものが一つも残らない場所に、俺は黒焦げで立っていた。外套だけが、いつものとおり焦げていない。
充実度0%。
町が静かになった。
それから、誰かが言った。
「……また、あの娘が、火を呼んだんだ」
礼を言った女は、もう何も言わなかった。
「……おい。今、消したの、俺だぞ」
誰も応えなかった。
「明日の火祭りは、予定どおりやる」
煤だらけの俺を見て、町役の男はそう言った。それから、こう続けた。
「――器は、二つだ」
俺は、答えられなかった。この町の厄を全部引き受けると言ったのは、俺だ。
隣で、ノエラが息を呑んだ。
三年、何を言われても顔色ひとつ変えなかった娘が、だ。
……ああ、そうか。
こいつ、自分のことでは、もう驚かないんだ。




