ep028「厄を全部くださいと言ったら、呪詛師に丁寧に断られた」
厄を移す札は、一枚で銅貨八枚だという。
宿代より安い。パン二つより高い。――それを、この町は三年、払い続けてきた。
……なあ。悪意って、ちゃんと予算がついてるんだな。
朝の火番小屋は、燃え残りの灰の匂いがした。鍋の松脂は冷めて、濁った飴のように固まっている。
町から届くのは戸の音と桶の音ばかりだ。明るくなっても、この町は静かなままだった。
筵に膝をついたノエラが、灰を掻き分けながら言った。
「聞いたことあるだけ。銅貨八枚だって」
「……八枚」
「安いでしょ」
恨み言も溜息も、後ろに付いてこない。
高いか安いか、胡桃しか持っていない男には決めかねる。
三日後までに、と昨日の俺は言った。その三日から一日削れて、残りは二日。
火番の日課は、辻ごとのかがり火に油を継いで回ることだ。灰を掻き、油を継ぎ、次の辻へ行く。慌てない。走らない。
ついて回って分かった。避けられているのは、俺ではない。
娘が通ると、町が半歩ずつ引くのだ。
井戸端の女が桶を持ち上げて場所を空ける。荷を担いだ男が道の反対側へ寄る。
誰も睨まない。何も言わない。ただ、半歩。
三年ぶん、毎日この道を歩いているのか。
小屋へ戻る途中、女がひとり、戸に紙を当てていた。掌で押さえ、それだけで身を翻す。
貼った先も見ない。効いたかどうかも確かめない。
追いついて肩に触れると、女は悲鳴に近い声を出した。
「頼んだのはうちじゃない! うちの人が……峠の上の、レンツさまに」
手を振り払って、女は坂を下りていく。戸には、白い札が一枚。
「昨日剥がしたばかりだろ」
「火祭りが近いから」
ノエラは戸を見て、それだけ答えた。近づくほど町は不安になり、不安の分だけ札が増える。
貼られたばかりの一枚を剥がし、懐に入れた。横でリゼットが無言で掌を差し出してくる。
「あんたはもう昨日の一枚を持ってるだろ」
「……一枚では、比べられませんので」
「今日のは俺が使う」
ノエラが油の壺を抱え直した。
「うちは、まだ油が残ってる」
日課は放り出せない、ということらしい。それでいい。連れて行く場所じゃない。
「じゃあ、その元締めのところへ行く。――客として」
峠道は松の間を折れて登り、登りきったところに小屋があった。
工房は、想像していたものと違った。
暗くない。煙くない。骨も髑髏も、怪しい香もない。
棚は整い、紙は角を揃えて積まれている。聞こえるのは、紙を裁つ音だけだ。
奥の竈で松脂が煮えていた。札の糊だという。この町は、産物と悪意を同じ材料で回している。
男は中年で、前掛けと指先が墨と脂で汚れていた。俺たちが戸口に立つと、すぐに刃を置いて向き直る。
「いらっしゃいませ。お待たせしました」
低い、丁寧な声だ。
厄憑きかい、とは言われない。どこの者だとも訊かれない。焦げない外套も、肩の白猫も、この男の関心の外にある。
この町で俺を客として扱った人間は、これが初めてだった。
……この町でいちばんまともに人を扱う男が、呪詛師だった。
「厄をくれ。この町のぶん、全部だ」
紙を揃えていた手が、初めて止まった。
「……失礼ですが、お客さん。移したい、ではなく」
「貰いたい、だ」
レンツは前掛けで指を拭い、帳面を開いた。追い返すためではない。
前代未聞の注文を、前代未聞のまま処理しようとする顔だった。
肩の白猫が、やたら嬉しそうに口を挟んだ。
「わかるわあ。決めるのは上、書くのは私、恨まれるのも私。うちの局と同じね」
「お前、その話、今日はやけに気持ちよさそうだな」
レンツが帳面から顔を上げ、頭を下げた。
「申し訳ありません。お請けできません」
「値は」
「お金の話ではありません」
墨の指が、束ねた札の角を揃えた。
「宛先を決めるのは、私ではありません」
町の誰かが、あの娘のせいだ、と思う。思うだけでは何も起きない。
それを紙に留めて形にするのが、この男の仕事だという。
「誰に向けるかは、思っておいでの方が決めておいでです。私は、器をこしらえるだけで」
「俺が銅貨を積んでもか」
「積まれても、宛先は変わりません」
値切る余地の話ではない。この町の思いが娘へ向いている限り、札は娘へ帰る。
「私は請けただけです。憎んだのは、町の皆さんでしょう」
開いたままの帳面が、こちらを向いていた。
左の欄は、注文ごとに形が違う。右の欄は――上から下まで、同じ形が続いていた。
「……宛先の欄です」
リゼットが小声で言った。
「三年ぶん、同じ名前です」
字は読めない。値の欄に、今朝覚えた形と同じ数字が並んでいた。八。
リゼットの目は、もう棚の型紙へ移っている。
「型があります。……古い型です」
文面は型で刷ってあった。手書きなのは宛先だけだ。憎しみの本文が既製品で、名前だけが手で書かれている。
「その札は、本当に効くのか」
「お客さんは、皆さん満足しておいでです」
商売の顔だった。
帳面には注文しか並んでいない。誰が倒れたとも、どこで火が出たとも書いていない。
災いの記録は、一行もなかった。
災いはただの不運で、この男は不運の宛先を書いているだけだ。
握りかけた拳を、下ろした。
殴る理由が、作れなかった。
外へ出ると、松の匂いが濃かった。
宛先は、思ってる側が決める。
……じゃあ、町の思いを変えるしかないってことか。方角だけが立って、方法は一つも立たない。
峠を下りながら、懐の札を出して胸に入れ直した。宛先が俺になるなら、それがいちばん早い。
何も起きない。視界の隅の数字も動かない。充実度5%。
……もっとも、俺は元から呪われている。効いたところで分かるものか。
「……いま、上がりませんでしたね」
半歩後ろで、リゼットが小声で言った。この人は、こういうときだけ確実に見ている。
夕方、火番小屋の常火が落ちた。
火番の娘の火が、である。
ノエラは慌てなかった。声も上げず、走りもせず、筵に膝をついて灰を掻く。熾をひとつ探し出して息を入れると、橙はすぐに戻った。
水桶には、いつのまにかひびが入っていた。
「不注意」
娘はそれだけ言って、水を移し替えた。
リゼットは何も言わない。言わない、というのがこの人の断定の仕方だ。
日が暮れる前に、小さいのがひとり来た。
町の子供だ。桶を抱え、後ろを何度も振り返りながら道の端を歩いてくる。
「……火、分けて」
ノエラは黙って熾を分けてやった。子供は礼も言わず、桶を抱えて走って帰る。
その背中が角を曲がるまで、見送った。
あの子の家の鍋は、今夜、この火で煮える。
……なあ。厄を移した相手の火で、この町は毎日飯を食ってるんだよな。
視界の隅で、数字が動いた。充実度15%。
夜。常火のそばで、腹を決めて口を開いた。
「二日後、山へは行かせない。方法はまだない。だが、行かせない」
「じゃあ、やめて」
火掻き棒を置いて、ノエラがこっちを見た。この町へ来てから、初めてまっすぐに。
「うちが行けば、みんな安心するから。……三年、考えたから」
言い返す言葉が出てこない。用意していたものが、一つも口まで上がってこなかった。
――三年。俺は十四年考えて、まだ何ひとつ決めていない。
拒まれて上がる数字があってたまるか。違う。三年ぶん誰にも言わなかったことを、この娘はいま、俺に言った。
町ぜんぶに避けられても動かなかった数字が、それだけで動く。
……おい。お前、ほんとに何を数えてるんだ。
白猫が欠伸をして言った。
「困ったわねえ。移し先が、自分で歩いて行くつもりよ」
視界の隅で、数字がじりっと上がった。充実度25%。
……おい待て。この町では、絶対に上がらないはずだっただろ。
楽園が、娘ひとりぶん壊れている。




