ep022「初めて、俺の自爆が役に立たなかった」
初出勤の朝。俺は私兵に叩き起こされて、坑口の前に立たされていた。
人生初の出社が、強制労働の炭鉱である。履歴書には書けない。
逃げるのは簡単だった。目の前の三人を鉱滓の山に埋めて、荷馬車で山を下りればいい。三十秒で終わる。
――だが、それをやったら俺は「あの坑」を一生見ないままになる。
だから俺は、殊勝な新入りの顔で、暗い穴に降りることにした。
「就職先、案外近くにあったわねえ。……訂正するわ。ひどい職場」
肩の白猫が、完全に他人事の声を出す。
「契約書もなし、始業の合図もなし。神界なら労務監査が三度は入るわよ」
「入るだけで、是正はされないんだろ」
「あら。よく分かってるじゃない」
カンテラを胸に押しつけられた。ゴズが顎をしゃくる。舐めるような目つきは、昨夜のままだ。
「手ぶらで入れば、そのまま埋まるぞ。よそ者」
荷馬車の脇で、リゼットが荷を抱えたまま見ていた。
「昼過ぎには、坑口の外におります。……あと、切符は受け取らないでください。あの紙は、この町の外ではただの紙です」
そもそも、よそ者に払う気があるとは思えないが。
焦げない外套の裾を締め直す。今日は爆ぜる予定がない。宝の持ち腐れである。
坑道の口が、冷たい息を吐いていた。
視界の隅の目盛りが、15%から13%へ落ちる。掘り手にされただけで下がる男。この呪いは今日も律儀だ。
◇
坑道の中は、聞いていたより静かだった。
湿った岩肌。カンテラの灯が、継ぎだらけの背中を点々と照らす。天井を支える黒い木組み――支保というらしい――が、時々、みし、と鳴った。
鳴るたびに、鉱夫たちの肩が一度だけ止まる。そしてまた動きだす。
「軋むのは、崩れる前触れなんだろ」
隣の若いのに訊くと、掌に唾を吐いて、鶴嘴の柄を握り直した。
「鳴らねえ日のほうが、少ねえよ」
その先で、年寄りの鉱夫が袖から紙を一枚抜いて見せた。賃金の話をした流れだ。
「銭じゃねえんだ。領主様の出す切符でな。使えるのは領主様の店だけ。麦も油も、店の言い値さ」
「足りない分は」
「借りるのさ。切符でな」
掘るほど、借りが増える。借りが増えれば、山を下りられない。
宝の山の上に、出口のない穴がもう一つ掘ってあった。
「聞いた? 賃金が現物支給。しかも自社製品よ。神界の未払い残業でも、ここまではやらないわ」
「あんたのとこ、未払いはあるんだな」
「あるわよぉ。私、七百年分」
その顔で言うな。
坑道が、途中で二股に折れた。
片方の口が、崩れた岩で塞がっていた。
手前に、鶴嘴が一本。柄を上に向けたまま、誰にも拾われずに転がっている。カンテラも一つ。硝子が白く曇っていた。
誰も、そっちを見なかった。前を行く背中も、後ろの足音も、そこだけ少し速くなる。
岩の向こうから、音がしない。
水の落ちる音も、風の抜ける音も、何もない。掘る音は、もっとしない。
……半月前から、ここはずっとこの静けさなんだろう。
頭の隅で、何かが一瞬だけ動いた。この岩を、吹き飛ばせば――
「新入り。お前はここだ」
襟を掴まれて、突き当たりまで引きずられた。切羽、というらしい。天井がいちばん低く、支保がいちばん軋む場所だ。要するに、罰の持ち場である。
黙って鶴嘴を握る。握り方は、さっき見て覚えた。
問題は、隣で起きた。
動きの鈍った年寄りの背中を、私兵が爪先で小突いた。一度。二度。三度目に、肩を蹴ろうとした。
――気づいたら、体が動いていた。
伸びた足をよけ、腕を取る。そのまま背中から支保へ押しつけて、肘を木組みに縫い留める。カンテラの灯が揺れて、男の顔が半分だけ照らされた。
骨は折っていない。折ったら坑が汚れる。
「――先輩風は、坑の外で吹け」
男は口をぱくぱくさせ、腕を抜いて、そのまま坑道を走って戻っていった。
しん、と静まった。
鶴嘴の音が、全部止まっている。
カンテラが、いくつも持ち上がった。継ぎだらけの背中が、いっせいにこっちを向いている。
――22%。
待て。拝むな。手を合わせるな。俺はまだ、この坑で石ひとつ掘っていないぞ。
「あんた、噂の《カタストロフ》様ってのは本当かい」
「通りすがりだ」
「通りすがりが、坑の中で私兵を壁に縫うかよ」
そのとき、坑口の方が急に騒がしくなった。鉱夫たちが鶴嘴を置いて、壁際へ寄っていく。
「――領主様のお成りだ」
◇
半日ぶりの外の光は、目に痛かった。
坑口の前に天幕が張られ、卓が一つ据えられている。その向こうに、痩せた男が座っていた。
上等な外套。爪の白い指。掘ったことのない手だ。卓には帳面が開かれ、脇に算盤が置いてある。
「本日、入坑百二十四。うち新規一」
書役が読み上げる。男は顔を上げない。指先が珠を撫でた。
「三番坑、産出が先週比で八分。目方が落ちている」
「切羽が痩せております」
「では人を寄せろ。四番から十二人。……十二人でいい。十三人は無駄だ」
怒鳴らない。凄まない。人が、桁として動いていくだけだ。
ヴェイン様、と誰かが小声で言った。この山まるごとの持ち主の名前らしい。
俺は列を離れて、天幕の前に立った。ゴズが一歩踏み出しかけて、ヴェインの指の一振りで止まる。
「奥の坑が、塞がったままだ」
筆は止まらない。
「まだ中に人がいるだろう」
算盤が、かちり、と一つ鳴った。
「生き埋めの一人を掘り出すより、新しい脈を掘る方が早い」
顔は、最後まで上がらなかった。
「あの坑は、近く埋め戻す」
……埋め戻す。
塞がっているだけなら、まだ開けられる。埋め戻されたら、二度と開かない。
筆が動いて、人がひとり、帳面の上で線を引かれて消えた。それだけの音しか、しなかった。
◇
日が傾く頃、選鉱場の軒下で、俺の袖が掴まれた。
ハンナだった。石の粉で白くなった指が、袖を握って離さない。
「聞いた。埋め戻すって」
「……ああ」
「ねえ」
顔が上がる。目は乾いていた。泣く暇があったら飯を食わせなきゃいけない、あの目だ。
「あんたの、その爆発」
指に力がこもる。
「坑を――開けられない?」
――それだ。
一瞬、本気でそう思った。岩を吹き飛ばして、道を開けて、兄貴を引きずり出す。俺の呪いが、また役に立つ。
次の瞬間、背中が冷えた。
岩を吹き飛ばせば、岩の向こうも、同じだけ吹き飛ぶ。
……初めてだった。
助けるための力が、助けたい相手にだけは、向けられない。
俺は口を開けなかった。開けたところで、言えることがなかった。
ハンナは俺の顔をじっと見ていた。それから、袖を掴んだまま、言い直した。
「……爆発じゃなくていい」
声が、少し掠れる。
「兄を、助けて。お願い」
――ああ。
そんな頼み方をされて、断れる奴がいるか。
「請け負った」
目盛りが34%まで上がった。いつもより、ずいぶん静かな上がり方だった。
◇
荷馬車に戻ると、リゼットが荷台の縁に腰かけて、妙な顔をしていた。
「腑に落ちません」
「何が」
「埋め戻しです」
小声だった。研究者の顔をしている。
「坑を潰すのは、蓋をするのとは違います。捨て石を運び、詰め、突き固める。埋め戻しは、掘るのと同じだけ人手と銭がかかります」
……ん。
「掘り出す銭が惜しい、と言った男ですよね」
リゼットが眉を寄せた。
「銭を惜しむ男が、なぜ銭をかけて坑を潰すのでしょう」
肩の白猫が、尻尾を一振りした。
「決まってるでしょ。あの坑、潰したいんじゃないの。――隠したいのよ、何かをね」
視界の隅の目盛りは35%のまま動かない。爆ぜる当てもないのに、数字だけが居座っている。
坑口の暗がりを見た。夕日が届かない。中は、朝と同じ色をしていた。
明日も、俺はあそこへ降りる。今度は、掘りに行くんじゃない。
……初出勤から、残業の予感しかしない。




