ep020「奪い返した手記に、俺へ呪いをかけた奴がいなかった」
「心当たりのない呪いなんて、この世にひとつもないものよ」
フェリ課長のあのはぐらかしは、一晩寝ても喉から抜けなかった。
栗の町を出て、翌日。転生、二十日目――荷台の上で、貰ったばかりの外套の袖を意味もなくめくっては戻していた。
渡り人の遺品だそうで、焦げも汚れもつかないらしい。
「その袖、朝から二十回はめくってるわよ」
荷台の隅で丸くなった白猫が目も開けずに言う。
「性能が確かめられないんだ。焦がす機会がないと、この布のありがたみが分からん」
「爆ぜたがってる魔道士って字面、なかなか地獄ね」
「重いしな。焦げない代わりに、やたら重い」
「文句が贅沢よ。前は爆ぜるたび、服が炭になってたのに」
「その言い方はやめろ」
二十日で手に入れた物を指で数えてみる。焦げない外套。爆ぜても死なない体。読める手記。木の実の在庫。金貨はゼロ。
あとは、御者台で古文書を検めている解呪師と、査定の愚痴しか言わない女神が一柱。
……悪くない。悪くない、と口の中で繰り返した途端、目盛りが動いた。
充実度30%。まだ誰にも優しくされていないのに、こいつは今日も無断で出勤している。
膝の上には借り物の手記。次に栗の町へ寄ったら返す約束の一冊だ。
異国の字――前世の、俺の国の字。この世界で読めるのは、たぶん俺だけだ。
ゆうべ読んだのは、あそこまで。問題は、その先だった。
◇
「この呪いは、術では解けぬ。想いの結晶ゆえ、かけ直すよりほかに、道はない」
あの一行で頁が終わっていた。続きは、次の丁から始まっている。
めくる。墨の匂いと、乾いた古紙の手ざわり。字は途中から荒くなっていく。急いで書いたか、手が震えていたか。
――呪いには、継ぎ目がある。
先の渡り人はそう書いていた。
人の手でかけられた呪いには、かけた奴の手癖が必ず残る。布の縫い目のように。壺のろくろ目のように。
持ち主のいない筆跡なんて、この世にはない。だから、まず継ぎ目を探せ。ほどく糸口はそこにしかない。
なるほどな、と頷いた次の行で指が止まった。
――だが、俺のこれには、それがない。
継ぎ目がない。他人の手癖がない。縫い目のない服のように、初めからこの形で生えてきたとしか思えない。
……待て。
外からかけられた形跡が、ない。じゃあ誰がかけたんだ、これは。
荷台の白猫が丸くなったまま片目を開けた。
「……なによ、その顔」
「なんでもない」
欄外に小さな字の書き込みがあった。呪いとは何の関係もない一行だ。
――この土地の粥は甘い。塩が欲しい。
しばらくその一行を見ていた。
「ミツルさん」
御者台から声が飛んできた。声に出して読んだつもりはないが、口が動いていたらしい。
「いま、継ぎ目と」
「継ぎ目がない呪いだとさ。かけた奴の手癖が、どこにも残ってないんだと」
「継ぎ目のない呪具なら記録に三例、うち二例は封じただけで解呪の記述がなく、残る一例は術者の名すら――」
早口が、そこで途切れた。
束を繰る指が、一拍だけ止まっている。紙の音が消えて、車輪の音だけになった。
「……『解けない呪い』の、類例ですね」
それきり、指はまた動きだした。
「興味深いです。ミツルさんの呪いは、やはり規格外です」
「褒めてないよな、それ」
「事実の確認です」
継ぎ目のない呪い。犯人のいない事件。
――気味が悪いほどしっくりくるのが、いちばん気に入らない。
◇
日が落ちて、街道脇の窪地に火を熾した。鍋が湯気を上げ、木の実の在庫がまた減る。金貨は今日も増えない。
外套の裾を火にかざしてみた。焦げない。当然だ。面白くもない。
「なあ、フェリ課長」
膝の横で丸くなりかけた白猫が耳だけ動かす。
「手記には、犯人がいなかった」
「……犯人?」
「外からかけた奴がいないんだ。継ぎ目がないってのは、そういうことだろ。なら、この呪いは誰が」
「さあ――」
いつもの「さあ?」が出てこなかった。
半拍。ほんの半拍だけ、薪の鳴る音が広くなった。
白い顔が、火から逸れた。
「……知らないわよォ」
欠伸がひとつ。前足を伸ばして、尻尾が地面を叩く。
「私は現場責任者であって、犯人じゃないんだから。労災の相談なら受けるけど、そっちは管轄外」
「相変わらず役所だな」
「役所なのよ。残業代も出ないけどね」
……この猫が俺の呪いの話で目を逸らしたのは、初めてだ。口には出さず、火に枝を足した。
「ま、心当たりを探すのはあんたの仕事よ」
白猫は鍋の湯気に鼻を寄せた。
「私は査定係。落ちてくる数字を眺めてるだけの、気楽な立場なの」
「その気楽な立場が、毎回俺を吹き飛ばしてるんだが」
リゼットが鍋の中身を椀に取り分け、無言で差し出してきた。木の実を煮た粥だ。
ひと口すすって、笑いそうになった。
……甘い。たしかに、塩が欲しい。
いつの時代か知らないが、同じことを頁の端に書き残した奴がいる。
焚き火の向こうで、リゼットが古文書を丁寧に畳んでいる。
二十日。手に入れたのは、焦げない外套と読める手記と、爆ぜても死なない体。あとは木の実の在庫と、この二人だ。
残ったのは、かけ直すしかない呪いと――それをかけた奴という、宛先のない問い。
充実度38%。誰も助けていない。誰にも惚れられていない。飯は木の実で、財布は空っぽだ。
なのに、上がっている。この面子で火を囲んでいるだけで、俺はそこそこ幸せということらしい。
ふざけた話だ。上限のある幸せなんて、どこの誰が設計した。
◇
リゼットが古文書の束を鞄へ収めた。行商の身だ。明日にはまた車輪が回る。
解呪師を訪ね歩く旅だと思っていた。頭を下げて、駄目でしたと言われて、次の町へ行く旅。
だが、術で解けないなら探すべきは術者じゃない。
かけ直すしかないのなら――最初にかけた奴を見つけないと、そもそも話が始まらない。
継ぎ目のない呪い。犯人のいない事件。宛先のない問い。
それでも宛先は、どこかにある。先の渡り人がどこまで辿り着いたのか、あの字はまだ教えてくれない。
枝が短くなり、火の色が低くなった。
「なあフェリ課長、次の町はどこだ」
白猫は火の向こうで、今度はちゃんと俗物の顔で笑った。
「さあ? ――でも、あんたが『かけ直す』相手は、案外近くにいるかもしれないわよ」
……その言い方、やめてくれ。喉に、また刺さる。




