ep002「充実度98%。おい、いま誰だ、俺に優しくした奴」
煙の晴れた門前の広場で、俺は無傷で立っていた。
消し飛んだのは、俺を取り囲んでいた十数人のならず者だけ。
――待て。さっき爆ぜたのは、確かに俺のはずだ。
両手を開いて、閉じる。指の一本も欠けていない。耳の奥で細い音が鳴っているだけだ。
焦げているのは服だけ。袖は肘から先が煤の房で、裾はどこへ行ったのかわからない。替えは一着もなく、財布の中身は、そもそも存在しない。
「……フェリ課長。俺、なんで生きてるんだ」
足元の白猫は答えず、髭を揺らしている。
広場の入口から、足音がぞろぞろと増えていく。市場にいた連中だ。
「見たか、今の」
「無詠唱だぞ。あんな魔法、聞いたことがない」
「化け物……」
いいぞ、化け物で構わない。そのまま怖がって散ってくれ。
と思ったのが早かった。人垣の後ろで、誰かが叫んだ。
「あの人だ! さっき露店を助けてくれた人だ!」
「英雄じゃないか」
やめろ。
体の芯が、じわりと熱を持つ。
視界の端に、見覚えのある光が点った。さっき俺を吹き飛ばしたやつと、同じ色だ。
俺は白猫を引っ掴んで脇に抱え、群衆の隙間を縫って走り出した。
英雄が全力で現場から逃げていく。格好はつかないが、爆ぜるより百倍いい。
三本目の路地に飛び込んで、ようやく足を止めた。日の差さない石畳が、ひやりと足裏を冷やす。
息はまったく切れていない。人類最強の肺は便利だが、今は先に聞くことがある。
「光が見えるんだよ。視界の端に、赤いのが」
「あー、それね。見えづらいでしょう。社用の閲覧権限、共有してあげる」
白猫が尻尾を一振りした。
視界の右上に、細長い枠がふわりと浮かぶ。読んだこともない文字なのに、意味だけがすんなり入ってくる。
充実度34%
「なんだこれ」
「あなたの呪いのメーター。100%になると爆ぜるの」
「なると、って。俺の意思は」
「関係ないわ」
あっさり言うな。
「上がる条件は四つ。まず、恋愛」
「縁がない」
「一番大きく上がるわよ。次に、人望と友情」
「それも縁がない」
「賞賛と名声は小さく」
「……さっき浴びた」
枠の中の数字が、ぴくりと上を向いた気がした。慌てて息を吐く。
「あとは、誰かと二人きりで過ごした時間。これはじわじわ積むの」
「じわじわ積むな。……待て。今ここ、二人きりじゃないか」
「私は猫よ」
「その理屈なら猫でも数えるだろ」
「それと、恋人になったり口づけしたら、数値は無視して即100%。決まりだから諦めて」
「決まりで人が爆ぜさすな……ちなみにだが、下がることもあるのか?」
「あるわよ。孤独、惨め、屈辱……ちょうどいいわ、実演しましょう」
白猫がどこからともなく、石みたいなパンを一個くわえて放ってきた。
「支給品よ。優しさは含まれてないから安心なさい」
「業務で人を惨めにするな」
言われたとおり、日陰の石畳に座り込んで、ひとりで硬パンを噛んだ。歯が鳴る。味がしない。
壁の向こうから市場の笑い声が届いて、それがまた効いた。
充実度29%。26%。22%。
「……下がった。俺の惨めさが、数値で保証された」
「そうそう。判定の基準はね、あなたの主観なの。前世のあなたの、卑屈な主観」
つまり、前世十四年ぶんの飢えたセンサーが、他人のわずかな優しさを大盛りで計上してくる。
「試してみましょうか。――ミツルくん、あなた、あの子を守ってがんばったわねえ」
22%が、31%になった。
「やめろ課長、それは攻撃だ」
「そういうことよ。優しさは、あなたには攻撃なの」
とはいえ、下げたばかりの今なら余裕がある。三割そこそこなら、天井までは遠い。
俺は最後の一片を飲み込んで立ち上がった。潰した露店の弁償と、詫び。逃げっぱなしでいい話じゃない。
……この算段が、五分後に粉々になる。
市場に戻ると、隅にはまだ白目のふたり組が転がっていた。誰も片づける気がないらしい。
そして香辛料の匂いの向こうから、小さな影が一直線に駆けてきた。
「あのっ、ミツルさん……!」
露店の少女だ。両手を胸の前で握って、目を潤ませて、精一杯の声で言った。
「助けてくださって、ありがとうございました。私、あなたのこと、一生忘れません」
38%。
「英雄が戻ってきたぞ!」
「あんたのおかげで市場が守られたんだ!」
61%。
「おにいちゃん、さっきの、すごーい!」
子どもの声が、とどめだった。枠の中の数字が、階段を三段飛ばしで駆け上がる。
98%。
「充実度98%……おい、いま誰だ、俺に優しくした奴!」
群衆がわっと笑った。褒められたと思ったらしい。やめろ、笑うな、上がる。
少女が一歩踏み出して、口を開いた。
「あの、私の名前……」
聞けない。今それを聞いたら、確実に天井を突く。
「ごめん、また今度!」
俺は群衆と逆の方へ、町外れへ全力で駆けた。
石ばかりの川原に、人影はなかった。少し遅れて追いついた白猫が、離れた岩の上に座る。
このまま座り込んで惨めに硬パンをかじれば、数字は下がる。下がるだろう。
そう算段した耳に、風が声を運んできた。
「ありがとうございましたー!」
市場の方からだ。あの少女の叫びが、この距離まで届く。人類最強の耳が、余計な仕事をする。
99%。
……逃げても届くのか、優しさってやつは。下げたところで、生きているかぎりまた上がる。
だったら。数字とにらみ合う一生を始める前に、確かめておきたいことがひとつある。
俺は死ななかった。あれが偶然でないのなら――誰も巻き込まないここでなら、試せる。
あのときは、逃げた先で勝手に爆ぜた。今度は、俺が場所を選んでここにいる。
風が、またあの声を運んできた。今度は、ひとつじゃない。
100%。
体の芯が、根こそぎ熱に変わる。止める方法は、はじめからない。
前世で他人に向けて何百回も唱えた言葉を、俺は自分に向けた。
「――爆ぜろ、俺」
閃光。轟音。
川原の石が跳ね、水が高く噴き上がり、世界が白く弾けた。
煙が晴れる。立っていた。焦げているのは、やっぱり服だけ。もう服と呼べるかは怪しいが。
そして視界の右上には、澄ました顔で文字が並んでいた。
充実度0%
「……は?」
「あら。言ってなかったかしら、爆ぜると0に戻るの」
「言ってない! 絶対に言ってない!」
死なない。場所は選べる。爆ぜれば0に戻る。
俺は煙の匂いのする自分の掌を見下ろして、深く息を吐いた。
「……武器にするしか、ないだろ」
夜になっていた。
冒険者ギルドの受付には、まだ灯りがついている。
呪いがどうであれ腹は減るし、この服では明日を越せない。日銭を稼ぐには登録がいる。
用紙に名前を書いて渡すと、受付は俺の顔をまじまじと見て、それから羽根ペンをすらすら走らせた。
「はい、登録完了です。……いやあ、噂はもう聞いてますよ。門前で一発、川原でもう一発。すごい魔道士さんだって」
「魔道士……」
返された登録票の職業欄には、はっきりとこう書かれていた。
自爆魔道士
「あの、俺は魔法が使えるわけじゃなくて、その、勝手に爆ぜるだけで」
言いかけて、口を閉じた。説明してもこじれる未来しか見えない。訂正には三十分と、追加の誤解が必要だ。
ギルドを出て、軒先の石段に腰を下ろす。空には星、腹には硬パンの残り、視界の端には0%。
膝に白猫が乗ってきて、尻尾でぱたぱたと叩いた。
名前だけはずっと充実していた俺の、異世界初日の成果。無傷で、無一文で、二つ名だけが立派になった。
「ところで、いいことをひとつ教えてあげる」
白猫はこともなげに言った。
「その呪い、解けるわよ。多分」




