ep015「旅をしていただけなのに、町に着く前に爆ぜました」
「カスタンまで、あと何日あるんだっけ」――あの晩の問いの答えは、三日、だった。
そして俺はいま、その三日を心底恨んでいる。初日の焚き火と粥で55%。二日目、雨宿りの軒下で三人並んで胡桃を剥いて70%。
誰も俺を助けていない。誰も俺に惚れていない。ただ旅が、穏やかなだけである。
あの晩は41%だったんだぞ。
二日目の夜、俺は抵抗を試みた。
「今夜は向こうで食う。一人で、離れて、惨めに」
「……お気をつけて」
「止めるところだろ、そこは!」
孤独と惨めさなら、この呪いはきっちり引き算してくれる。焚き火から二十歩離れた岩陰で、冷めた粥をすすった。目盛りが下がる。よし。
膝に、白猫が乗ってきた。
「なにやってんの、こんなところで」
「乗るな! 台無しだろ!」
「あったかいのよ、あんたの膝」
結局、火のそばに戻された。栗の話をして、明日の道の話をして、笑って寝た。
85%だった。
下げに行った夜に限って一番上がるのはなぜだ。
そして三日目の昼前。栗林の切れ目の向こうに、苔の乗った古い門が見えた。
「見えました。カスタンです」
「ようやくか」
言った瞬間、視界の隅で数字が跳ねた。
充実度98%。
「歩いてただけだぞ、俺は!?」
荷馬車が停まる。街道脇の空き地に降りる。人はいない。木もない。風下でもない。この十五日で、位置取りだけは職人の域に達した。
「ちょっと行ってくる」
「いってらっしゃい」
リゼットは手綱を握ったまま、そう言った。完全に日課の扱いである。
ゴミ出しの顔で、俺は息を吐いた。
轟音。土煙。栗林の鳥が一斉に飛び立つ。
充実度0%。裾がまた焦げた。
煤を払って戻ると、白猫が欠伸をしていた。
「おつかれさま。今日のは手際がよかったわね」
「作業に講評をつけるな」
◇
カスタンは、古い町だった。
石畳は角が丸く磨り減り、門の石には苔が乗っている。栗を焼く甘い煙の匂いが、路地に溜まっていた。
市場のハゼル、婚礼のウォルナ、収穫のアーモ。どの町とも違う。この町の売り物は、古さだ。
その古さの門前に、けったいな市が立っていた。
「渡り人の聖なる鍋蓋」
「渡り人の匙」
「渡り人の外套。焦げませぬ、燃えませぬ」
木札の字を目で追って、俺は足を止めた。
赤い布を敷いた台の上に、うやうやしく祀られているそれは。
……鍋の蓋である。どこからどう見ても、鍋の蓋だった。
肩の白猫が、ひげをぴんと立てる。
「ね? 言ったでしょ」
「言ってた。九割は鍋の蓋だって。まさか蓋そのものが拝まれてるとは思わないだろ」
リゼットは軒を端から端まで一度眺め、言い切った。
「偽物です。全部」
「早いな」
「見れば分かります」
焦げませぬ燃えませぬの外套の前で、俺の足が勝手に止まった。焦げた裾が、今日も脛でひらひらしている。
「なあ、これがもし本物だったら俺は」
「偽物です」
どのみち買えない。胡桃なら一袋半あるが、栗の町で胡桃を売る間抜けはいない。
歩いていると、視線が寄ってきた。
「おい、あれ……アーモの守り神を消し炭にしたっていう」
「《カタストロフ》様だ」
尾ひれが二本ほど増えている。それでも悪い気がしないのだから、この呪いはよくできている。目盛りが10%まで戻った。
肝心の話を切り出すと、市の空気が変わった。
「本物の手記を探してるんだ。渡り人が書いたっていう」
鍋の蓋の店主が目を落とし、木札の位置を直しはじめた。隣も、そのまた隣も、同じように手元を見る。
商売の邪魔をされた顔ではない。触れたくないものに触れられた顔だ。
と、市の外れで威勢のいい声が弾けた。
「それ、うちの竈の欠け椀よ!」
◇
声の主は、俺より頭ひとつ小さい娘だった。台に身を乗り出し、店主の鼻先に木の椀を突きつけている。
「渡り人の茶碗なんて大嘘ついて恥ずかしくないの! うちの婆ちゃんが漬物石を落として割った椀よ、それ!」
「い、言いがかりだ」
「じゃあそっちの短刀は? その細工、町の鍛冶屋の去年の型でしょ」
リゼットが小さく息を吐いた。
「……速いですね」
「そっちの見立てとは別口だな」
術理で見抜くのがリゼットなら、あの娘は暮らしで見抜いている。
三軒目を潰したあたりで、市の奥から男が三人出てきた。腕まくりの、いかにも雇われた顔だ。
「嬢ちゃん。営業妨害はそのへんにしときな」
娘の襟に太い手が伸びる。
その手が布をつかむまでの一瞬が、やけに長く見えた。
――気づいたら、体が動いていた。
伸びた腕を払い、掌を鳩尾に当てて押す。男が背中から空樽に突っ込んだ。二人目は足がもつれて自分で転び、三人目は転がった二人を見比べて両手を上げた。
野次馬が沸いた。
「《カタストロフ》様だ!」
「爆発は!?」
「今日のぶんはもう済んだ」
娘は椀を抱えたまま俺を睨み、それから唇を尖らせた。
「べ、別に助けてなんて言ってない。……言ってないけど。ありがと」
おい、いま上がったぞ。23%。
リゼットが袖を引き、耳元で言った。
「いま、上がりましたね」
「小声で言うな。余計に上がる」
「タニア」
娘はそう名乗った。
「文庫番のタニア。渡り人の手記と遺品を預かってきた家の娘。……だったんだけどね」
「だった?」
タニアは市を振り返った。鍋の蓋。匙。焦げない外套。
「本物は、うちの蔵にあったのよ。年に一度の虫干し。封蝋を割るのは当主だけ。婆ちゃんのそのまた婆ちゃんの代から、そうやってきたの」
「あった、っていうのは」
「ひと月前に、教会の解呪局の出先が来た」
声から勢いが抜けた。
「危険な呪物の疑いがあるって。蔵ごと封をして、中身は全部持って行ったわ。うちの封蝋の上から、あいつらの封蝋を貼ってね」
「返せとは言ったのか」
「三度行った。二度は門前払い。三度目に、異端の疑いがどうとかって言われた」
何かされたわけではない。ただ、それ以上は行けなくなる。そういう言葉の使い方だった。
「じいちゃんは、あの日から蔵の前を動かないの。割られた封の前に座って、何をするでもなく」
タニアは椀を抱え直した。
「あの人、書物を守ってたんじゃないのよ。守る役を、やってたの」
市の喧噪が、少しだけ遠くなった。
「だからね」
顎で、屋根の向こうを示す。石畳の坂の上に、白い壁がのぞいていた。
「本物なら、教会が持って行ったわ」
旅の目的が、初めて目と鼻の先まで来た。――壁の向こうにだが。
中継市で拾った差出人不明の文の後半――まともな手段では、もう手に入らない。
あの一行が、ようやく腑に落ちた。
そのとき、夕方の鐘が鳴った。
市のざわめきが、波の引くように静まっていく。石畳を、法衣の裾が並んで歩いてきた。
◇
一団は露店の間を進みながら、同じ文句を繰り返す。
「渡り人の遺物・記録の類は、届け出て検めを受けよ」
「隠し持つ者は、これを咎める」
怒鳴り声はひとつもない。触れを読む声だけが、市の上を平らに滑っていく。
さっきまで鍋の蓋を売っていた男が、木札を布で隠して首をすくめた。
肩の白猫が、心底うんざりした声を出す。
「どこの世界も、出先ほど偉そうなのよねえ」
「役所への恨みが具体的すぎるだろ」
一団の後ろについていた従士が、足を止めた。俺たちの荷馬車の前だった。幌の脇に、屋号の板が下がっている。
「グリモア呪具店」
従士は板の字を読み上げ、台帳に何か書きつけた。
「行商の呪具屋か。明朝、荷を検めさせてもらう」
狙い撃ちではない。網にたまたま掛かった。そういう手つきだ。
リゼットが一歩前に出る。
「ええ、どうぞ」
屋号を名乗るときと同じ、商売の声だった。
従士は頷き、法衣の背を追って行った。
鐘の余韻が消えて、市は片付けの音に戻る。
俺は荷馬車の幌をめくった。
薬草の束、呪具の箱、その奥に文箱がひとつ。
中身は、俺の呪いの観察記録だ。第三項。第五項。第七項。上がった日と下がった日と、その理由。十三日ぶん、みっちりと。
「なあフェリ課長」
「なあに」
「向こうはこっちの荷馬車を検めたくて、こっちは向こうの蔵を検めたい。……なんだこの状況」
白猫は尻尾を一振りして、実に楽しそうに答えた。
「決まってるでしょ。――先に検めた方の、勝ちよ」




