ep012「悪党の切り札は、自分の墓穴を掘る道具だったらしい」
「次に魔物が出たとき、誰が里を守るのか」
ゆうべのドレクの台詞は、脅しなんかじゃなかった。予告だ。今日、狙って、魔物が出る。
分かっている。分かっているのに、目の端の数字は三割に張り付いたまま、下りてくれない。
危機の予感と充実度が反比例しない体。欠陥品にも程がある。
その朝、斜面を上がってくる影がひとつあった。扁桃の樹の下で、ネルが手籠を土に置き、深く頭を下げる。
「……お願いします。父を、助けてください」
英雄なんか当てにしないと言い切った娘の、つむじが見えていた。
「あたし、払えるものが何もない。実も、油も、樹も、全部あいつらの札がついてる」
声が、そこで一度切れる。
「それでも、お願いします」
拝まれるのには、もう慣れた。頼まれるのには、まだ慣れない。
「頭を上げてくれ。受ける」
顔が上がるまでに、扁桃の葉が二枚落ちた。
「ただし条件がひとつ。今日、まっすぐあの搾油場へ乗り込むのはなしだ」
「……どうして」
「柵を壊して連れ出したら、俺はただの借金泥棒だろ。借りは里じゅうに回って、明日から報復されるのはあんたたちの方だ」
拳で勝てる相手ではある。だが、あの男は里の権力そのものだ。殴って勝っても、勝ちにならない。
「だから、あいつ自身に動いてもらう」
枝の上で、白猫が尻尾の先を揺らした。
「待ちの一手ねえ。あなた、待つのは下手でしょう」
「今日は待つ。向こうから来る日だからな」
ひねった蛇口には、必ず指の跡が残る。
そして昼過ぎ、里外れの方角から、悲鳴が上がった。
斜面を駆け下りる。旧い搾油場の柵が、内側から折れていた。隙間からいつも流れてきた、核を割る乾いた音が止まっている。
崩れかけた石壁の中を、痩せた背中がいくつも逃げ惑っていた。
その真ん中に、熊型。
はじめに果樹園へ降りてきた個体より、肩ひとつぶん大きい。前脚が石臼を跳ね飛ばし、臼が壁に当たって砕けた。
「柵の外へ! 立てない奴はそこにいろ、俺が運ぶ!」
里人のひとりが、詰所の方角を指したまま動けずにいる。
「さっき走ったんだ。詰所には人がいた。いたのに、誰も出てこない」
……なるほど。英雄がいるなら、守り手はいらないだろう、か。
守る者が、守らないことで里を締めにかかっている。背中を、薄ら寒いものが降りていった。
考えるのは後だ。
地面を蹴った。振り下ろされる前脚の内側へ体を入れ、空いた掌を顎へ打ち上げる。
ごう、と音がして、巨体が浮いた。
石壁を壊さない角度。逃げ遅れた背中のいない方向。位置取りだけは、この十日でだいぶ上手くなった。
落ちてきたところへ踏み込み、太い首を掴む。掴んだまま、片腕で作業台の陰の男を抱え上げた。
柵越しに一度だけ見た、あの痩せた背中だった。爪の割れた指が、俺の袖を弱く握る。
「娘さんは上だ。無事だよ」
破れ目まで運んで、外の草地へ下ろす。二人目、三人目。
「ミツルさん。首輪が――」
「後で聞く!」
肩の上で、白猫が鼻を鳴らした。
「ねえミツル。妙ねえ。都合よく出るのに、今日は都合よく守り手が来ないわ」
怖いも、腹立たしいも、この体は一切勘定に入れてくれない。数字は三割のまま、指一本ぶんも動かなかった。
最後のひとりを柵の外へ出したところで、斜面の上を見上げる。
ネルが父の肩を掴んで、無事を確かめていた。確かめ終えた顔が、こっちを向く。
泣いていた。
その背後で、誰かが声を上げた。
「魔道士様だ!」
「《カタストロフ》様が、また来てくださった!」
歓声が、そのまま数字になって流れ込んでくる。三割が坂を転げ登りはじめた。
まずい。まずいが、まだ間に合う。
そう思った矢先だった。
「なんで……」
ネルの声は、歓声の隙間を縫って、はっきり届いた。
「なんで、あなたばっかり」
頬を伝ったものが、顎から落ちる。泣き方を先に忘れさせられた娘の、初めての泣き方だった。
「あたしたちのために、そこまで爆ぜて――」
語尾が、途切れた。
その先は聞かない。聞いてはいけない。
充実度98%。
(頼むから今それを上げてくれるな。まだ人の親父さんを抱えてるんだぞ)
(命がけの真っ最中に98%。俺の体、空気の読めなさだけは世界最強か)
視界の端が白く滲みはじめる。
足元は瓦礫。左右に里人。背中に搾油小屋。ここで満ちたら、助けた連中ごと吹き飛ぶ。
しかも掴んでいる熊型が、また前脚を石に立てた。
走れる道が、ない。
(――数秒でいい。数字を、こらえろ)
(思い出せ。前世の後夜祭、フォークダンスの輪。相手の列が、ひとり余った)
(余ったのは俺だ。二年連続で)
98%が、93%まで落ちた。
「効くのがいちばん腹立つ!」
「傷は深いほうが役に立つわねえ」
「実況やめろ!」
熊型の首を掴み直し、地面から引き剥がす。
柵を越え、斜面を駆け上がった。果樹の列が途切れて、石だらけの荒れ地に出る。
背中では歓声がまだ膨らんでいる。押し戻したはずの数字が、走るぶんだけ坂を登り直してきた。
人影なし。樹なし。里は遠い。
位置、よし。
いつもの一言が喉まで来て、そこで噛み殺した。
(――取っておく。この台詞は、明日、あの男の前で使う)
数字が、てっぺんを叩く。
閃光。轟音。降ってくる灰。
0%。
黒焦げの熊型が、行儀よく伸びていた。無傷なのは、相変わらず俺だけである。
斜面の下で、里が沸いた。
「魔道士様が、また魔物を消し飛ばしたぞ!」
「あれが日課の修練というやつだ」
修練で丘がひとつ禿げる男が、どこの世界にいる。
――だが、沸いていない里人が、何人かいた。
柵の前に立ったまま、こちらを見ていない。見ているのは、詰所のある方角だ。
「……なあ。なんで今日は、守り手が来なかったんだ」
誰も答えなかった。
その一言だけが、灰より重く里に落ちた。
リゼットが荒れ地を横切って、黒焦げの残骸のかたわらに屈み込む。焼けた首から外れた輪を、指の腹でなぞった。
「ミツルさん。この刻印、前の個体と同じ手のものです」
「同じ奴が焼いた、ってことか」
「線の癖は筆跡と同じです。真似られません」
それから、留め金を持ち上げる。
「この鎖、つい先ほど締め直されています」
近くで世話をする者が要る、とリゼットは昨日言った。今日は、もっと近い。
首を掴んだとき、雑木の陰で何かが動いた。鉤棒を抱えた背中が、振り返りもせず後ずさって、藪の奥へ消えた。
顔も名も分からない。だが、いた。
「もうひとつ」
リゼットが、折れた下生えの筋を指でたどる。破れた柵から、斜面をひとつ越えた先へ。
「この魔物が来た方角――自警団の、詰所の側から」
指の跡は、残った。
ゆうべまでは、ただの状況証拠だった。使役の刻印。桁の合わない守り賃。集荷の前日という符合。そこへ今日、あの男自身の一手が乗った。
もっとも、突きつける相手はこの場にいない。手を汚さず蛇口だけひねって、詰所でくつろいでいる。いま乗り込んでも、笑って白を切られて終わりだ。
現に、助け出した里人たちは、灰が落ち着くころには柵の中へ戻っていった。戻らなければ、借りが増えるからだ。
ネルの父も、その列にいた。ネルが袖を掴んで、掴んだまま、離した。
助け出したのに、縛りはひとつも解けていない。
斜面を下りると、また油の瓶を押しつけられた。相変わらず扁桃である。
「路銀にはならんのだよなあ」
数字が、じわりと10%。
「里を守る金で魔物を飼って、その魔物で里を締めて、締めた証拠を自分から差し出す、か」
灰の匂いの残る掌を、見下ろした。
「……悪党の切り札ってのは、たいてい自分の墓穴を掘る道具でできてるらしい」
白猫が、詰所の方角へ尻尾を向けた。
「明日は集荷。里じゅうが、あの広場に集まるわ。――蛇口をひねるには、ちょうどいい舞台じゃない?」




