交わすことば
奉公人は大人ばかりではない。お店の主人は、まだ子どものころから仕える彼らを十数年養って、役に立つ人材に育てあげる必要があった。とはいえ、躾方はお店によってさまざまで、奉公の辛さに逃げだす者や、ならず者に成り下がり、主人を傷つけたり金をくすねたり、お店に火をかけようとする輩もあわられる。どんな理由があろうとも、打首や獄門沙汰の例は、数えきれないほどあった。
丁稚の結之丞は、隠れて盗み食いをする女中や、番頭の慈浪に説教をされる下女たちを幾度も見てきた。仕事をさぼって遊びたいと思ったことはいちどもないが、居眠りをがまんするのはたいへんだった。
遅い夕飯のあと、団子汁の椀を持ってぼんやりしていると、手許がすべり、畳の上にこぼしてしまった。すぐさま手代が飛んできて、「この莫迦もん」と叱られた。
「も、申しわけありません」
薄ものの着物から熱い汁がしみこみ、太腿あたりに軽い火傷を負う。じわじわとした痛みに眉を寄せると、そこへ慈浪があらわれて状況を確認した。下女を呼んで後片付けをさせる。番頭の声は低い。叱られると思って身をすくめる結之丞に「立て」と、短いひとことでしたがわせる。おそるおそる廊下へでると、ばったり若旦那と鉢合わせた。
「慈浪さん。これはなんの騒ぎですか」
「たいしたことじゃない」
「結之丞くんは、どちらへ」
番頭のうしろに立つ結之丞を見て、若旦那が声をかける。少年の着物がぬれていることに気づき、怪訝そうな顔をした。
「小僧が汁物をこぼした。念のため、患部を冷やしておく」
「では、急いで氷を用意しましょう。慈浪さんは、結之丞くんをぼくの部屋までお願いします」
「手当てなら、母屋でいいだろう」
「ぼくの部屋のほうが近いですから」
火傷の処置は早いにかぎる。廊下を引き返す若旦那は夜着の恰好をしていた。寝る仕度をすませた若旦那をよそに、騒ぎを起こしてしまった結之丞は、己の不注意を反省した。
番頭は小さく溜め息を吐き、母屋とは逆の方向へ歩きだす。若旦那の私室へはいれるのは、ごくかぎられた人物だけである。慈浪もそのうちのひとりだが、子守役から世話役となった今、唐紙を開けるたび、千幸とのあいだに妙な空気が流れた。女のように細い手足や白い肌は、生まれたときから変わらない。首のうしろでゆるく結んだ髪の下に小さな白斑があることは、大旦那や抄子(大旦那の女房)さえ知らないだろう。
若旦那の私室へ足を運んだ結之丞は、とくべつな待遇に萎縮するよりも、火傷の痛みが強くなっていて、「ううっ」と、なさけない声をだした。敷かれていた千幸の布団に横たわると、やわらかい感触にホッとなる。番頭は少年の腰紐を解いて着物を脱がせた。両足の太腿が赤く腫れていたが、重傷というほどではない。若旦那は手桶に氷を盛って戻り、かんざしのような真鍮の箸で砕いた。氷の破片を手ぬぐいに包み、患部を冷やす。
「具合はどうだい、結之丞くん」
「つめたくて、気持ちいいです」
「痕が残らないよう、よく効く軟膏を塗ってあげよう」
「あ、ありがとうございます……」
番頭が百味簞笥に保管してある軟膏を取りにいくと、下帯姿の結之丞は、千幸の布団を占領している事実に途惑った。
「あの……、若旦那さま、ご面倒をおかけして、すみませんでした……」
「これくらいの不慮の事故は、誰にでも起こり得るさ。きみだけの問題ではないよ」
若旦那のやさしいことばは全身に沁みわたるようで、火傷の痛みも緩和された。軟膏の容器を手にして戻った慈浪は無表情だが、なんとなく怒っているようで緊張する結之丞は、「ごめんなさい」とあやまった。番頭は枕もとに坐って腕を組み、「凶運だな」と、半分あきれた声で云う。汁物をこぼした罰として、後日、障子の張り替えを手伝うことになった。
古くなった障子紙は、ご飯粒の糊を使って張り替える。湿度の高い日に作業をすると黴てしまうため、気温が穏やかな日を見計らっておこなう必要があった。承知してうなずくと、患部に軟膏を塗る若旦那が、「お仕事、がんばって」と励ましてくれた。適切な処置を終えて千幸の部屋をあとにする結之丞は、夜風が吹き抜ける渡り廊下をゆっくり歩いた。
〘つづく〙




