第19話 神殿崩壊
――やっと、帰ってきた。
御堂の声が響いた。
十六階の扉が閉まる。
「……帰ってきた?」
とおるが呟く。
「誰が?」
返事はない。
代わりに、白い壁に黒い文字が浮かんだ。
『御堂恒一郎 帰宅』
ゆうこが息を呑む。
「帰宅……?」
「屋敷が、御堂を住人として認識したんだ」
美奈が言った。
「でも、御堂はもう死んでいる」
「死んでいても……」
神崎が壁を見る。
「この家にとっては関係ないらしいな」
突然。
部屋の中央に黒い影が現れた。
人間の形。
顔はない。
その影の胸元だけが、奇妙に膨らんでいる。
そこから御堂の声がした。
「私は帰る」
「この家へ」
「ここだけが、私の世界だ」
とおるは叫ぶ。
「お前が人を閉じ込めた!」
「違う」
御堂の声は静かだった。
「私は人を救った」
「何が救いだ!」
「外の世界では、人は傷つけ合う」
「裏切る」
「失う」
「老いる」
「死ぬ」
「だから家を作った」
「誰も出ていかなくていい家を」
ゆうこが叫ぶ。
「それは家じゃない!」
「檻だ!」
影がゆうこを見る。
「君も、いつか分かる」
「外へ戻れば、また苦しむ」
「それでも帰る!」
ゆうこは、とおるの手を握った。
「私は、自分で選ぶ」
その瞬間。
影が揺らいだ。
「……選ぶ?」
御堂の声に、初めて怒りが混じった。
「人間に選択など必要ない」
「家が選ぶ」
床が割れた。
十六階の床下から、巨大な黒い空間が現れる。
その底に――
巨大な神殿があった。
「……地下?」
まなみが呟く。
神崎が目を凝らす。
「いや」
「落ちてるんじゃない」
「下に……階がある」
地下へ続く階段。
その先には、金色の光。
「金塊……」
美奈が呟いた。
しかし。
黒田が消えたときに見た金塊とは違った。
そこには数え切れないほどの金塊が積まれている。
その中央に――
御堂の祭壇があった。
「これが……」
とおるが呟く。
「屋敷の中心」
老婆の声が響いた。
「そう」
全員が振り返る。
姿は見えない。
しかし、確かにそこにいる。
「ここが、この家の心臓」
「壊せるのか?」
神崎が聞く。
「壊すことはできる」
老婆は答えた。
「ただし……」
声が止まる。
「誰か一人が、ここに残らなければならない」
全員が沈黙する。
また同じだった。
一人を犠牲にする。
それが屋敷のルール。
「……嫌だ」
とおるが言う。
「誰も残さない」
老婆が静かに答える。
「ならば、家を騙しなさい」
「どうやって?」
「住人ではなくなるの」
「……?」
「家に必要とされることを拒むの」
とおるは考える。
そのとき、美奈がノートをめくった。
「あった」
最後のページ。
父親の文字。
『屋敷の弱点』
『この家は、人間の「欲しい」という感情を取り込んで成長する』
『ならば――』
その先が破れていた。
「続きがない……」
美奈が呟く。
「いや」
とおるが言った。
「ある」
「え?」
とおるは金塊を見た。
そして、黒田を思い出した。
金が欲しい。
生きたい。
逃げたい。
愛されたい。
休みたい。
認められたい。
屋敷は、人間の欲望を利用してきた。
「欲しいと思わなければいい」
ひとみが言う。
「でも、そんなの無理だよ」
「だから……」
とおるは神殿を見る。
「欲望を手放すんだ」
その瞬間。
神殿の金塊が、一斉に崩れた。
ガラガラガラ――。
屋敷全体が震える。
「何をした!」
御堂が叫ぶ。
とおるは金塊を見つめる。
「俺は、この金が欲しくない」
まなみが続けた。
「私も」
ひとみも。
「私もいらない」
神崎が笑う。
「そもそも俺は、ここに残る気なんてない」
美奈が目を閉じる。
「私も、父の答えだけを求めてここに来た」
「でも……もういい」
ゆうこが、とおるの手を握る。
「私が欲しいのは、お金じゃない」
「とおると一緒に帰ること」
金塊の山が崩れていく。
壁の亀裂が広がる。
御堂の声が絶叫に変わる。
「やめろ!」
「人間は欲望を捨てられない!」
「捨てられる!」
とおるが叫んだ。
「全部じゃない!」
「でも、自分で手放すことはできる!」
その瞬間。
神殿の奥で何かが割れた。
――パキン。
巨大な亀裂が走る。
屋敷全体が揺れ始める。
天井が崩れる。
階段が崩れる。
「走れ!」
神崎が叫んだ。
全員が出口へ向かう。
しかし。
美奈が立ち止まった。
「……待って」
「どうした!」
「ジェシカがいる」
壁を見る。
そこには、ジェシカの顔。
「私を……置いていかないで」
とおるが駆け寄る。
「ジェシカ!」
「早く行って」
ジェシカが笑った。
「私はもう、この家の一部だから」
「嫌だ!」
「とおる」
ジェシカは静かに言った。
「私、初めてこの家に入ったとき……再生数のことしか考えてなかった」
少し笑う。
「だから、家に捕まったのかも」
「でもね」
「最後は……」
ジェシカの目から涙が落ちる。
「誰かを助けたいって思えた」
「だから、行って」
「ここは私が止める」
「そんなこと――」
「お願い」
ジェシカが微笑む。
壁の向こうで、無数の手が動き始める。
ジェシカが目を閉じる。
「さよなら」
壁が閉じる。
「ジェシカ!」
とおるが叫ぶ。
返事はなかった。
神崎がとおるの肩を掴む。
「行くぞ!」
全員が走る。
しかし。
出口の直前。
神崎が立ち止まった。
「……扉が開かない」
「え?」
出口の扉には文字が浮かんでいる。
『住人六名』
『退去者一名』
『残留者一名が必要』
「まだ終わってない……」
神崎が呟く。
そして。
扉の前に立った。
「神崎さん?」
「俺が残る」
「駄目です!」
とおるが叫ぶ。
神崎は笑った。
「大丈夫だ」
「これは俺が選んだことだ」
「屋敷に選ばれたんじゃない」
「俺自身が選ぶ」
神崎は扉の横にある古いレバーを握った。
「お前らは帰れ」
「外で生きろ」
「この家のことを忘れてもいい」
「でも――」
神崎は、とおるを見る。
「二度と、ここへ戻るな」
レバーを下げる。
扉が開いた。
強い風が吹き込む。
外の匂いがした。
雨。
土。
木々。
本物の空気。
「走れ!」
とおるたちは出口へ飛び込む。
最後に振り返る。
神崎が一人、扉の向こうに立っている。
そして。
その背後に。
姿のない老婆が立っている気配がした。
「……ありがとう」
老婆の声。
神崎は少し笑った。
扉が閉じる。
――ドン。
巨大な音とともに、屋敷が崩れ始めた。
とおるたちは山道を転がるように下った。
振り返らない。
振り返ってはいけない。
やがて。
木々の隙間から朝の光が見えた。
二ヶ月ぶりの――
外だった。
しかし。
とおるが最後に見た屋敷の最上階。
そこには。
確かに。
一つだけ窓があった。
十六階。
そしてその窓から。
誰かが手を振っていた。
とおるには――
それが神崎なのか。
ジェシカなのか。
それとも。
自分自身なのか。
分からなかった。




