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『十五階の迷宮 ――神の家から出られない』  作者: こうた


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20/20

第20話 もう一つの階



朝の光が眩しかった。


とおるは、地面に膝をついていた。


土の匂い。


湿った草。


冷たい風。


鳥の声。


全部が、懐かしかった。


「……外だ」


まなみが呟く。


ひとみも、美奈も、ゆうこも。


誰もすぐには立ち上がれなかった。


二ヶ月。


屋敷の中では、そう感じていた。


だが――


「救助隊が来るまで、ここを動かない方がいい」


神崎の声を待っていたとおるは、そこで初めて気づいた。


「……神崎さん?」


返事はない。


とおるが振り返る。


そこには、崩れ落ちた山肌しかなかった。


屋敷は消えていた。


巨大な建物も。


十五階も。


十六階も。


すべて。


「神崎さんは……?」


ゆうこが小さく聞く。


誰も答えられなかった。


やがて救助隊が到着した。


警察。


消防。


地元の捜索隊。


しかし。


彼らが調べても、奇妙なことが分かった。


「……屋敷?」


警察官が首を傾げる。


「この場所に建物があったという記録はあります」


「ただ……」


古い資料を見せる。


「確認できるのは小さな家だけです」


とおるは絶句した。


「違います」


「俺たちは……」


言葉が出ない。


十五階。


地下。


神殿。


無数の部屋。


何百人もの写真。


金塊。


十六階。


全部、確かに見た。


「証拠は?」


警察官が尋ねる。


とおるはポケットを探った。


スマートフォン。


壊れている。


美奈のノート。


ページは真っ白。


ひとみの服。


泥だらけ。


まなみのザック。


そして――


ゆうこの手。


「……ない」


写真も。


金塊も。


神殿も。


何も残っていなかった。


ジェシカも。


神崎も。


黒田も。


屋敷と一緒に消えた。


ただ一つ。


とおるのポケットに、小さな紙切れが入っていた。


取り出す。


そこには、


『退去者 五名』


と書かれていた。


とおるの手が震える。


「……五名?」


ゆうこが見る。


「私たちは……?」


紙の裏側。


そこには、


『帰宅者 五名』


と書かれていた。


とおる。


ゆうこ。


ひとみ。


まなみ。


美奈。


五人。


「じゃあ……」


ひとみが呟く。


「神崎さんは?」


返事はない。


とおるは紙を握りしめた。


---


その後。


事件は公表されなかった。


山中で遭難した五人が救助された。


それだけだった。


ジェシカについては、行方不明者として捜索が続けられた。


黒田も。


神崎も。


見つからなかった。


美奈の父親の資料も、ほとんど残っていなかった。


ただ。


数ヶ月後。


とおるは以前の仕事に戻った。


完全に元通りではない。


以前なら、何でも一人で抱え込んでいた。


今は違う。


「無理です」


と言えるようになった。


「今日は帰ります」


と言えるようになった。


自分の限界を認めることが、逃げではないと知った。


そして。


ゆうことも連絡を取り続けていた。


ある休日。


二人で小さな喫茶店に入った。


「最近、少し顔が変わったね」


ゆうこが言う。


「そう?」


「うん」


ゆうこが笑う。


「前より、生きてる感じがする」


とおるは笑った。


「……あの家のおかげかな」


「嫌な言い方」


ゆうこが笑う。


「じゃあ、あの家がなかったら?」


とおるは少し考えた。


「たぶん……ずっと休むことを怖がってた」


「今は?」


「休むよ」


ゆうこが笑う。


「よかった」


二人の間に、穏やかな時間が流れた。


もう、あの屋敷のことを話すことは少なくなった。


忘れようとしていた。


あれは夢だった。


そう思いたかった。


――ある夜までは。


---


午前二時十三分。


とおるのスマートフォンが鳴った。


画面を見る。


着信――


『ジェシカ』


とおるの心臓が止まりそうになる。


ありえない。


ジェシカの番号は、事件後に確認されている。


すでに使われていない。


それでも。


着信は続いている。


「……もしもし」


出てしまった。


しばらく無音。


そして。


「とおる?」


ジェシカの声。


間違いなかった。


「ジェシカ……?」


「聞こえる?」


「どこにいる!」


「分からない」


声が少し笑った。


「でも、前より近いよ」


「近い?」


「うん」


「どこなんだ?」


しばらく沈黙。


そして。


「窓のない部屋」


とおるの背中が冷たくなる。


「十六階?」


「……違う」


ジェシカが答えた。


「十六階じゃない」


「じゃあ、どこ?」


ジェシカは小さく笑った。


「十七階」


電話が切れた。


とおるは動けなかった。


その瞬間。


玄関のチャイムが鳴った。


ピンポーン。


午前二時十三分。


ありえない時間。


とおるは玄関へ向かった。


覗き穴を見る。


誰もいない。


もう一度。


ピンポーン。


今度はドアの向こうから声がした。


「とおる」


ゆうこの声。


「開けて」


とおるの手が止まる。


ゆうこは今、隣の部屋にいる。


つい数分前まで、電話で話していた。


そして――


玄関の向こうの声が続く。


「私だよ」


「一緒に帰ろう」


とおるはドアから離れた。


声が変わる。


「……とおる?」


今度は神崎。


「開けろ」


そして。


老婆。


「開けて」


少年。


「おじさん」


ジェシカ。


「とおる」


御堂。


「家に帰ろう」


最後に。


自分自身。


「開けて」


とおるは目を閉じた。


「……ここは俺の家だ」


声が止まった。


「でも」


とおるはドアを見つめる。


「お前たちの家じゃない」


静寂。


やがて。


玄関の向こうから、


――カタン。


何かが落ちる音がした。


恐る恐る覗き穴を見る。


誰もいない。


ただ。


床に一枚の紙が置かれている。


そこには、


『退去者 五名』


『帰宅者 五名』


そして。


その下に新しい文字。


『入居者 〇名』


とおるは息を吐いた。


終わった。


本当に。


そう思った。


しかし。


最後の一行を見て、凍りつく。


『未確認階層 1』


「……未確認?」


その下には、小さな数字。


『17』


と書かれていた。


とおるは紙を握りしめる。


その瞬間。


隣の部屋から、ゆうこの声が聞こえた。


「とおる?」


「……何?」


「今、変な音しなかった?」


「どんな音?」


「上から……」


ゆうこが天井を見る。


二人の部屋はマンションの最上階。


その上には――


屋上しかない。


それなのに。


――コツ。


天井から足音。


――コツ。


一歩。


――コツ。


また一歩。


そして。


天井の向こうから。


少年の声がした。


「おじさん」


とおるは動けなかった。


「次は……」


少年が笑う。


「家じゃないよ」


「もっと大きいところ」


照明が一瞬、消える。


再び点いたとき。


天井には、見覚えのない数字が浮かんでいた。


『17』


ゆうこが、とおるの手を握る。


「……とおる」


「うん」


二人は天井を見上げた。


数字はゆっくり消えていく。


最後に残ったのは――


一文字だけ。


『帰』


そして。


どこからともなく。


あの老婆の声が聞こえた。


「……今度は、あの子を帰してあげて」


――そこで、すべての音が消えた。

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