第18話 最後の住人
十六階へ続く階段は、上へ伸びていた。
誰も言葉を発しなかった。
十五階までは、確かに存在していた。
だが、その上には何もないはずだった。
それなのに。
一段。
また一段。
上るたびに、空気が冷たくなる。
「……寒い」
ゆうこが腕を抱える。
とおるは自分の上着を脱ぎ、ゆうこの肩に掛けた。
「着てて」
「でも、とおるが寒いでしょ」
「大丈夫」
ゆうこは少し迷い、それから小さく笑った。
「ありがとう」
その光景を見ていたひとみが、何か言いかけた。
だが、何も言わなかった。
神崎が先頭を進む。
美奈とまなみが続く。
最後に、とおるとゆうこ。
階段はどこまでも続いているように見えた。
やがて。
「……着いた」
神崎が呟いた。
目の前に扉がある。
扉には数字が書かれていた。
『16』
神崎が手を伸ばす。
「待って」
美奈が止めた。
「どうした?」
「この扉……」
美奈がノートを開く。
そこには、父親が書いた一文があった。
『十六階には、部屋が一つしかない』
『その部屋には窓がない』
『扉も一つしかない』
「つまり……」
まなみが扉を見る。
「入ったら、出られない?」
「そういうことかもしれません」
とおるが扉を見つめる。
その向こうから。
――コン。
ノック。
一回。
――コン。
二回。
そして。
「おじさん」
少年の声。
「入っておいで」
とおるの心臓が大きく鳴った。
「俺が行く」
「一人で?」
ゆうこが聞く。
「……分からない」
「じゃあ、私も行く」
「ゆうこ」
「一緒に帰るって言ったでしょ」
とおるは黙った。
そして頷いた。
「うん」
二人で扉を開ける。
中は――
真っ白だった。
壁も。
床も。
天井も。
すべて白い。
中央に、小さな椅子が一つ。
そこに少年が座っていた。
「やっと来た」
少年が笑う。
「おじさん」
「お前は誰なんだ?」
少年は首を傾げた。
「知ってるでしょ?」
「知らない」
「嘘」
少年は笑った。
「ずっと見てたよ」
とおるの背中に寒気が走る。
「仕事してるところも」
「一人でご飯を食べてるところも」
「夜、眠れないところも」
「泣いてたことも」
とおるの呼吸が止まる。
「……何で知ってる?」
「家が見てたから」
少年は答えた。
「家には、目がいっぱいあるんだよ」
壁を見る。
すると。
白い壁の中に、無数の目が浮かび上がった。
「……!」
ゆうこがとおるの腕を掴む。
少年は続ける。
「おじさんは、家にぴったりだった」
「疲れてた」
「一人だった」
「帰る場所がなくなってた」
「だから、呼んだの」
とおるは唇を噛んだ。
「俺が山に来たとき……」
「そう」
「誰かが呼んでた」
少年が頷く。
「あれ、僕」
「……お前だったのか」
「うん」
とおるの脳裏に、山へ入る前の記憶が蘇る。
――おいで。
――こっちだよ。
――休めるよ。
あれは屋敷だった。
最初から。
「じゃあ、全部……」
「家が決めた」
少年は笑う。
「誰と会うかも」
「どこへ行くかも」
「いつ迷うかも」
「誰が消えるかも」
ゆうこが叫ぶ。
「じゃあジェシカも?」
少年は答えなかった。
代わりに壁の一部が透明になる。
その向こうに、ジェシカがいた。
壁と一体化している。
目だけが動く。
「……とおる」
「ジェシカ!」
「聞こえてる」
ジェシカは微笑んだ。
「でも……私、もう戻れない」
「そんな……」
「大丈夫」
ジェシカは言った。
「怖くないよ」
「嘘だ」
「……うん」
一瞬だけ、ジェシカの目に涙が浮かんだ。
「本当は怖い」
「助けて……」
とおるが壁へ走る。
しかし。
透明だった壁が一瞬で白く戻る。
「やめて!」
ゆうこが止める。
「とおる!」
少年が笑った。
「もう少しで完成なのに」
「完成って何だ!」
とおるが叫ぶ。
少年は椅子から立ち上がった。
「僕の家」
「御堂が作ったんじゃないのか?」
「最初はね」
少年の表情が変わる。
「お父さんは、僕のために家を作った」
「僕は病気だった」
「外に出られなかった」
「だから、お父さんは言ったんだ」
少年は笑う。
「世界全部を家にすればいいって」
とおるは絶句した。
「家の中なら、僕は苦しくない」
「誰にも会わなくていい」
「誰にも嫌われない」
「死ぬこともない」
少年の声が幼くなる。
「でも……僕は死んじゃった」
ゆうこが息を呑む。
「死んだ?」
少年は頷く。
「僕が死んでも、お父さんは家を作るのをやめなかった」
「どんどん大きくした」
「僕が帰ってこられるように」
少年の背後の壁に、古い写真が浮かぶ。
御堂。
少年。
そして――
黒く塗り潰された女性。
「お母さんは嫌がった」
「だから、お父さんはお母さんも家に入れた」
とおるは気づいた。
姿のない老婆。
「……あの人は」
「お母さん」
少年が答える。
「僕を家に閉じ込めたお父さんを、ずっと恨んでる」
「でも、お父さんももう死んでる」
「じゃあ、どうしてまだ……」
少年は笑った。
「家が覚えてるから」
その瞬間。
白い部屋が大きく揺れた。
壁に亀裂が走る。
少年が怯える。
「……嫌だ」
「何?」
「家が怒ってる」
壁から黒い影が現れる。
人の形。
顔はない。
だが。
とおるには分かった。
これは、これまで追ってきた影。
「……お前が屋敷なのか」
影は答えない。
ただ、とおるへ手を伸ばす。
少年が叫んだ。
「おじさん!」
「逃げて!」
「この人に捕まったら――」
影の手が、とおるの胸に触れる。
瞬間。
頭の中に大量の記憶が流れ込んだ。
自分の記憶。
仕事。
家族。
友人。
恋人。
そして――
知らない人々。
この屋敷に入った何百人もの人間。
最後に。
一つの光景。
山へ入る前の自分。
誰もいない道。
そこで、とおるは確かに聞いていた。
――おいで。
だが。
記憶には、もう一つの声があった。
「……待って」
とおるが呟く。
「この声……」
ゆうこを見る。
「最初に聞いた声は……屋敷じゃない」
ゆうこが驚く。
「じゃあ、誰?」
とおるは振り返った。
少年ではない。
老婆でもない。
御堂でもない。
そこに立っていたのは――
自分自身だった。
ただし。
今の自分ではない。
もっと若い。
幼い頃の、とおる。
「……俺?」
少年が笑った。
「そうだよ」
「家が呼んだんじゃない」
「おじさん自身が、ここを知ってたんだよ」
とおるの顔から血の気が引く。
「……俺が?」
少年は頷いた。
「だから、家はずっと待ってた」
その瞬間。
部屋の壁いっぱいに文字が浮かび上がった。
『最終住人候補』
『第一候補 とおる』
『第二候補 ゆうこ』
そして最後に。
これまで空欄だった三人目の名前が、ゆっくり浮かび上がる。
『第三候補――』
文字が完成する。
とおるは息を止めた。
そこに書かれていた名前は――
『御堂恒一郎』
「……え?」
ゆうこが呟く。
少年が笑う。
「そう」
「最後に家へ入るのは――」
少年がとおるを見る。
「お父さんだよ」
その瞬間。
屋敷全体から、御堂の声が響いた。
「――やっと、帰ってきた」
十六階の扉が、外側から閉じた。




