第15話 欲望
黒田が消えてから、誰も眠れなかった。
広い食堂。
長いテーブル。
七つの椅子。
そのうち一つだけが、空席になっている。
「……七人だった」
ひとみが呟いた。
「黒田が消える前は」
神崎が答える。
「今は六人だ」
「でも……」
ひとみがテーブルを見る。
「椅子は七つのまま」
誰も座ろうとはしなかった。
そのとき。
カタン。
空席の椅子が、勝手に動いた。
ゆっくりと後ろへ引かれる。
まるで誰かが座ろうとしているように。
「……やめろ」
神崎が銃を向ける。
椅子は止まった。
そしてテーブルの上に、白い紙が一枚落ちてきた。
『一人を残せば、五人は帰れる』
全員が凍りつく。
「……五人?」
まなみが言う。
「今、六人いる」
神崎が紙を睨む。
「つまり――」
「一人死ねば、五人は出られる」
ひとみが言った。
誰も否定できなかった。
黒田が消えた直後。
屋敷の表示は、
『退去者一名』
となっていた。
そして黒田が消えたあとも、とおるたちはまだ屋敷の中にいる。
つまり。
黒田が「退去者」として認識された可能性がある。
「でも、ジェシカは?」
ゆうこが聞いた。
全員が黙る。
ジェシカの姿は、まだ見つかっていない。
「ジェシカが死んだって決まったわけじゃない」
とおるが言った。
「壁にいた顔……あれも、本人だったとは限らない」
「そうだね」
ゆうこが頷く。
しかし、美奈が静かに言った。
「この家では、生きていることと、死んでいることの境界が曖昧です」
「どういう意味?」
「父の記録に書いてありました」
美奈はノートを開く。
「この屋敷では、人間が消える前に『記録』されるそうです」
「記録?」
「写真、名前、声、記憶……」
美奈はページをめくった。
「そして最後に、本人そのものが屋敷の一部になる」
とおるの胸がざわつく。
「じゃあ、ジェシカは……」
「まだ分かりません」
美奈は答えた。
「でも、壁に顔が出たなら……」
その先を言わなかった。
沈黙が続く。
やがて、ひとみが立ち上がった。
「私は、ここに書かれたことを信用しない」
「ひとみ?」
「一人を残せば五人が帰れるなんて、屋敷が言っているだけでしょう?」
「そうだ」
神崎も頷いた。
「これは罠だ」
「じゃあ、黒田は?」
まなみが聞く。
「黒田は自分から金を持ち出した」
神崎は答えた。
「欲望につけ込まれたんだ」
「……つまり、屋敷は人間の欲を利用してる?」
「恐らくな」
神崎が紙を見る。
『一人を残せば、五人は帰れる』
「これも同じだ」
「一人を犠牲にすることで、残りの人間に生きる希望を与える」
神崎の声が低くなる。
「その希望が、人間同士を壊す」
その瞬間。
テーブルの上に、新しい紙が落ちた。
今度は名前が書いてあった。
――とおる。
――ゆうこ。
――ひとみ。
――まなみ。
――神崎。
――美奈。
そして。
最後に、
『誰を残しますか?』
と書かれていた。
「……ふざけんな」
まなみが紙を握り潰す。
すると壁から声がした。
「一人でいい」
老婆の声だった。
「一人を置いていけば……みんな帰れる」
「お前は誰だ!」
神崎が叫ぶ。
返事はない。
ただ、とおるの耳元でだけ声がした。
「……あなたが残ればいい」
とおるは振り返る。
誰もいない。
「とおる?」
ゆうこが心配そうに近づく。
「今、誰か……」
「何もないよ」
とおるは嘘をついた。
だが、その直後。
ゆうこがとおるの手を握った。
「嘘」
「え?」
「顔に出てる」
とおるは黙った。
ゆうこは少しだけ笑った。
「私には言って」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
「……ここに残れって言われた」
「誰に?」
「分からない」
「じゃあ、残らないで」
即答だった。
「でも――」
「帰ろう」
ゆうこは、とおるの手を強く握った。
「二人で」
その瞬間。
食堂の照明が消えた。
真っ暗になる。
そして。
「……いいね」
女の声。
今度は老婆ではなかった。
若い女の声だった。
「二人で帰ろう」
ゆうこが震えた。
「この声……」
とおるにも分かった。
聞き覚えがある。
ジェシカだった。
「とおる……」
暗闇の中から、ジェシカの声が聞こえる。
「お願い……」
「ジェシカ!」
とおるが叫ぶ。
「どこにいる!」
返事はない。
代わりに、壁の向こうから声がする。
「こっち」
「ジェシカ!」
「こっちだよ、とおる」
声が近づいてくる。
「私を置いていかないで」
ゆうこの手が強くなる。
「とおる……行かないで」
「行かない」
とおるは答えた。
「絶対に行かない」
すると。
壁の向こうから笑い声がした。
「……嘘つき」
照明が戻る。
そこには誰もいなかった。
ただ。
テーブルの上に、また一枚の紙が置かれていた。
今度は一行だけ。
『第八候補は、もう決まりました』
とおるは紙を見つめる。
その瞬間。
美奈が小さく息を呑んだ。
「……待って」
「どうした?」
美奈は震える指で紙の裏側を指差した。
そこには、肉眼ではほとんど見えないほど小さな文字があった。
『第八候補――白石美奈』
美奈の顔から血の気が引いた。
「……私?」
その瞬間。
彼女の背後の壁がゆっくり開いた。
中から現れたのは――
黒田の腕だった。
「……助け……」
美奈が叫ぶ。
黒田の手が、美奈の首へ伸びる。
しかし。
その手は、美奈に触れる寸前で止まった。
黒田の指先から、金色の粉が落ちる。
そして壁の奥から。
黒田ではない声が聞こえた。
「一人では足りない」
「……え?」
「二人必要だ」
壁がさらに開く。
その奥には、無数の写真が貼られていた。
何百人。
何千人。
この屋敷に入った人間たち。
その写真の中央に――
とおるとゆうこの写真があった。
そして、その二人の間に。
見覚えのない三人目の人物が立っていた。
顔は黒く塗り潰されている。
写真の下には、こう書かれていた。
『最終住人候補』
そして、その名前だけが――
まだ空欄だった。




