第14話 屋敷の住人
「……ここに残ろう」
自分の声。
そう聞こえた瞬間、とおるは反射的に壁から離れた。
「今の……聞こえた?」
ゆうこが尋ねる。
とおるは答えられなかった。
聞こえた。
確かに聞こえた。
だが、それ以上に恐ろしかったのは――
その言葉を、自分自身が一瞬だけ「いい」と思ってしまったことだった。
何もしなくていい。
責任もない。
怒られることもない。
疲れることもない。
ここにいれば、ずっと眠っていられる。
「……とおる」
ゆうこの手が、とおるの手を握った。
温かかった。
その温度で、ようやく現実に戻ってくる。
「大丈夫」
「……うん」
「帰ろう」
短い言葉だった。
けれど、とおるにはそれだけで十分だった。
「帰ろう」
二人は手を離さなかった。
その様子を、少し離れた場所から美奈が見ていた。
美奈は何か言おうとした。
しかし、何も言わずに視線を逸らした。
「……あの」
ひとみが美奈に声を掛ける。
「お父さんの記録って、まだ持ってる?」
「あります」
美奈は古びたリュックからノートを取り出した。
表紙には、
『御堂家・増築記録』
と書かれていた。
「父は、この屋敷を普通の建築物として調べていたんです」
神崎がノートを受け取る。
ページをめくる。
そこには、屋敷の平面図が描かれていた。
「……これは?」
神崎が眉をひそめる。
「地下から十五階まで……全部つながってる」
まなみが覗き込む。
「でも、この図じゃ……今いる場所と全然違う」
「そうです」
美奈は頷いた。
「父も同じことを言っていました」
「何を?」
「図面通りに建っていない、と」
美奈は一枚のページを開いた。
そこには赤い文字で、
『建物が設計者の意思を無視している』
と書かれていた。
その下には、さらに文章が続いていた。
『増築しているのは人間ではない』
『屋敷自身が、空間を増やしている』
全員が黙った。
そのとき。
廊下の奥から、足音が聞こえた。
――コツ。
――コツ。
――コツ。
誰かが歩いてくる。
「誰だ?」
神崎が声を上げる。
返事はない。
足音だけが近づく。
そして暗い廊下から姿を現したのは――
黒田だった。
「……お前ら」
「黒田!」
まなみが睨む。
黒田は以前よりも顔色が悪かった。
しかし、その目だけは異様に輝いている。
「探したぞ」
「どこにいた?」
神崎が聞く。
「下だ」
「地下?」
「もっと下だ」
黒田は笑った。
「金塊の部屋を見つけた」
全員の表情が変わった。
「……本当に?」
ジェシカがいない今、誰も喜ぶ者はいなかった。
それでも黒田は興奮していた。
「間違いない。あれは本物だ」
「触ったの?」
ひとみが聞く。
「少しだけな」
黒田は自分のポケットを叩いた。
「一枚持ってる」
神崎が険しい顔になる。
「捨てろ」
「嫌だね」
黒田は即答した。
「こんな場所から生きて出られる保証なんかない。だったら、せめてこれだけでも――」
「それが人を狂わせてる」
美奈が言った。
黒田が美奈を見る。
「誰だ、お前」
「白石美奈です」
「……そうか」
黒田の顔から笑みが消えた。
「白石……」
「父を知っていますか?」
黒田は答えなかった。
ただ、目を逸らした。
その反応を見て、美奈が一歩近づく。
「父は、この屋敷で何があったのか知っていましたか?」
「……知らない方がいい」
「答えてください」
「帰れなくなる」
黒田の声が低くなる。
「この家は、知った人間を帰さない」
美奈が黙る。
黒田は続けた。
「俺は一度、外へ出た」
「本当に?」
とおるが聞く。
「ああ」
「じゃあ、どうして戻ったの?」
黒田はしばらく黙っていた。
そして――
笑った。
「金だよ」
あまりにも簡単な答えだった。
「外に出たあと、何年も忘れようとした。けどな……」
黒田はポケットを握りしめる。
「夢に出てくるんだ」
「何が?」
「金塊が」
黒田の目が狂気に近い色へ変わった。
「毎晩、同じ夢を見る」
「地下の神殿。
そこに金が積まれてる。
そして御堂が言うんだ」
黒田は声を落とした。
「――持って帰れば、人生をやり直せる」
沈黙。
すると。
廊下の壁から、金属音がした。
カン。
カン。
カン。
黒田の顔が青ざめる。
「……始まった」
「何が?」
神崎が聞く。
「金を返せって言ってる」
「誰が?」
黒田は答えなかった。
代わりに、床を見た。
床の隙間から――
黒い液体がゆっくり染み出していた。
それは黒田の足元まで広がる。
「来るな……」
黒田が後退する。
「来るな!」
壁の中から無数の手が現れた。
だが、今回はとおるたちには向かわなかった。
全ての手が――
黒田へ伸びている。
「助けてくれ!」
黒田が叫んだ。
「俺はまだ死ねない!」
まなみが一歩踏み出す。
「黒田!」
しかし神崎が腕を掴んだ。
「待て!」
「でも!」
「これは……俺たちが手を出したら、全員持っていかれる」
黒田の足が床に沈み始めた。
「違う!」
黒田がポケットから金塊を取り出す。
「これを返せばいいんだろ!」
金塊を床へ投げる。
カラン。
金塊が転がった。
手が止まった。
誰もが息を呑む。
「……止まった?」
ひとみが呟く。
黒田が笑った。
「そうだ……これで――」
突然。
金塊が床から浮いた。
黒田の胸元へ戻ってくる。
「な……」
金塊は黒田の胸に押し付けられた。
皮膚に触れた瞬間――
ジュッ。
黒田が絶叫した。
「ぎゃあああああっ!」
金塊が肉に沈んでいく。
「外れろ!」
黒田が必死に引っ張る。
しかし、もう遅かった。
黒い手が黒田の体を掴む。
一本。
二本。
十本。
数え切れないほどの手が、壁の中から這い出してくる。
「助けてくれ!」
黒田はとおるを見る。
「とおる!」
とおるは動けなかった。
黒田の目が涙で濡れている。
「俺を置いていかないでくれ!」
その瞬間。
とおるの頭の中に、あの言葉が響いた。
――一人を掴め。
――一人を残せ。
屋敷の壁に、新しい文字が浮かんだ。
『入居者七名』
その下に、
『退去者一名』
と表示された。
そして――
『次の住人を選びます』
黒田が壁の中へ引きずり込まれる。
最後に残ったのは、彼の手だった。
その手が必死に床を掻く。
そして。
完全に消えた。
静寂。
誰も口を開けなかった。
やがて、とおるのスマートフォンが鳴った。
画面を見る。
着信――
『黒田恒一』
と表示されている。
とおるは電話に出なかった。
しかし。
留守番電話が自動的に再生された。
『……とおる』
黒田の声。
『次は、お前だ』
その瞬間。
電話の画面に、新しい通知が表示された。
『屋敷の住人が更新されました』
そしてその下に――
『第八候補 とおる』
という文字が浮かんだ。




