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『十五階の迷宮 ――神の家から出られない』  作者: こうた


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第13話 屋敷の住人



「ゆうこ……」


とおるが振り返った。


ゆうこは、廊下の中央に立っていた。


足元には、濡れた足跡がある。


裸足の足跡。


だが、その足跡はゆうこの足元から始まり、壁の中へ向かって続いていた。


「……私、歩いてない」


ゆうこの声が震える。


ひとみがすぐに彼女の肩を抱いた。


「動かないで。絶対に壁に近づかないで」


「でも……」


ゆうこが壁を見る。


そこには、さっきまでなかった扉があった。


古びた木製の扉。


取っ手の部分だけが異様に新しい。


そして扉には、黒い文字で名前が書かれていた。


――ゆうこ。


「……私の名前」


まなみが息を呑む。


「また増えた……」


「何が?」


とおるが聞く。


まなみは廊下の奥を指差した。


壁。


天井。


床。


そこら中に、小さな文字が浮かび上がっていた。


とおる。


ゆうこ。


ひとみ。


まなみ。


かんざき。


ジェシカ。


そして――


もう一つ。


「……これ、誰?」


ひとみが呟いた。


そこには、


『しらいし みな』


と書かれていた。


「知らない名前……」


ジェシカを除く全員が顔を見合わせる。


すると。


――コン、コン。


扉の向こうからノックが聞こえた。


全員が固まった。


「誰かいる」


まなみが低く言った。


「開けるな」


神崎が止める。


しかし、扉の向こうから女の声がした。


「……誰か、いますか?」


若い女だった。


弱々しい。


泣き疲れたような声。


「お願い……誰かいるなら、返事をしてください」


神崎が銃を構える。


「名前は?」


少しの沈黙。


そして。


「……白石美奈です」


とおるの背中に冷たいものが走った。


壁に書かれた名前と同じだった。


神崎が扉を睨む。


「何日ここにいる?」


「……八日です」


「八日?」


ひとみが驚く。


「私たちは……まだ一日も経っていないはず」


神崎が時計を見る。


時計の針は午前二時十三分。


だが、秒針が動いていない。


止まっている。


「この家では時間が信用できない」


神崎が呟いた。


そして扉の向こうから、美奈が言った。


「……あなたたちも、呼ばれたんですね」


「呼ばれた?」


とおるが聞き返す。


「この家に」


美奈の声が震えた。


「私は、最初からここに来るつもりじゃありませんでした」


「じゃあ、どうして?」


「父を探していたんです」


空気が変わった。


「父?」


「昔、この屋敷を調べていた人です」


美奈は続けた。


「宗教団体が解散したあとも、父はこの家を調べ続けていました」


「何を調べていた?」


神崎が聞く。


しばらく沈黙があった。


「……人です」


「人?」


「この家に消えた人たち」


美奈の声が小さくなる。


「父は、この家には死んだ人間の記録が残っていると言っていました」


その瞬間。


廊下の電灯が一つ消えた。


また一つ。


また一つ。


暗闇が、こちらへ近づいてくる。


「全員、下がれ!」


神崎が叫ぶ。


最後の電灯が消える直前。


扉の隙間から、人の目が見えた。


白石美奈の目だった。


「……助けて」


扉が開いた。


美奈が倒れ込んできた。


ひとみとまなみが受け止める。


彼女は痩せていた。


髪は乱れ、服は泥だらけ。


そして手には、一枚の古い写真を握っていた。


「これを……見てください」


とおるが写真を受け取る。


古い集合写真だった。


十数人の男女。


中央に立っているのは――


御堂恒一郎。


その隣に、顔を黒く塗り潰された妻。


さらに、その後ろ。


写真の端に、一人の少年が立っていた。


とおるは息を止めた。


「……あの子」


少年。


今まで何度も現れた、あの少年だった。


しかし、美奈は首を横に振った。


「違います」


「え?」


「この子は……もう一人います」


写真を指差す。


少年の隣。


そこには、誰もいないはずの空間があった。


だが、よく見ると――


誰かの肩だけが写っている。


「この人は誰?」


ゆうこが尋ねる。


美奈は答えなかった。


代わりに、写真の裏を見せた。


そこには御堂の筆跡と思われる文字があった。


――屋敷は人間を記録する。


――記録された者は、屋敷から消えない。


――肉体がなくなっても。


――名前がなくなっても。


とおるは写真から目を離せなかった。


そのとき。


背後から声がした。


「……おじさん」


少年だった。


全員が振り返る。


少年は廊下の奥に立っていた。


「七人になったね」


美奈の顔が青ざめる。


「……七人?」


少年は笑った。


「うん」


そして、とおるを指差した。


「これで、家が選べる」


「何を?」


とおるが尋ねる。


少年は答えた。


「住む人」


その瞬間。


廊下中の壁が、一斉に鳴った。


ドン。


ドン。


ドン。


まるで壁の向こうから、大勢の人間が叩いているようだった。


そして壁に、文字が浮かび上がる。


『入居者七名』


『候補者二名』


『退去者〇名』


ゆうこが震える。


「候補者……二人って……」


とおるは理解した。


第11話で見た写真。


そこに書かれていた言葉。


――第一候補 とおる。


――第二候補 ゆうこ。


「俺たち……二人のことだ」


ゆうこがとおるを見る。


その目に恐怖が浮かんでいた。


すると。


どこからともなく、老婆の声が響いた。


「……違う」


全員が顔を上げる。


「候補は……二人じゃない」


声は、ゆうこのすぐ後ろから聞こえた。


「三人目がいる」


ゆうこがゆっくり振り返る。


誰もいない。


だが、ゆうこの肩に――


見えない誰かの手が置かれた。


「……ゆうこ」


とおるが叫ぶ。


その瞬間。


ゆうこの体が、壁へ引っ張られた。


「きゃああっ!」


とおるが腕を掴む。


神崎も加わる。


まなみとひとみも必死にゆうこを引く。


壁の向こうから、大勢の声が響いた。


「住もう」


「ここなら苦しくない」


「疲れなくていい」


「何もしなくていい」


「帰らなくていい」


その言葉を聞いた瞬間。


とおるの手から力が抜けた。


――何もしなくていい。


――仕事もしなくていい。


――責任もない。


――誰にも怒られない。


――もう、頑張らなくていい。


それは、とおるが心の奥底で何度も望んだ言葉だった。


「……とおる?」


ゆうこの声が聞こえる。


とおるは壁を見つめた。


その奥から、優しい声がした。


「とおる。


ここがお前の家だ」


少年の声だった。


そして――


壁の向こうから、もう一つの声がした。


それは。


とおる自身の声だった。


「……ここに残ろう」


とおるは凍りついた。


その声は、確かに自分だった。


けれど。


電話から聞こえた過去の自分の声とは違う。


これは――


今の自分の声だった。

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