第3話:公爵令嬢、初めて台所に立つ(セシリア視点)
見つけてくださってありがとうございます。今日も大好きな読者の皆様に、おいしくて心温まるお話を届けたくて言葉を紡ぎました。この物語が、皆様のお腹と心を少しでも満たせますように。それでは本編をどうぞ。
わたくし、セシリア・フォン・アストレアは、生まれて十七年、包丁を握ったことがありません。
だって必要がなかったのですもの。
食事とは、食卓に運ばれてくるもの。
それがアストレア公爵家の常識でした。
ですから、月明かりの差し込む第三実習調理室で、わたくしは巨大な銀色のまな板を前に、腕を組んで立ち尽くしていたのです。
「まず、材料は……卵、バター、牛乳、砂糖、塩」
手元には、お抱えシェフのロベールから届いたばかりの返信があります。
昼休みのうちに、魔導鳩で頼んでおいたのです。
わたくしは丁寧に封を切り、レシピの一行目を読みました。
『塩、適量』
「適量とは、何グラムですの!?」
レシピの末尾には、流れるような筆跡の追伸まで添えてありました。
『お嬢様、レシピは地図にすぎません。実際に歩くのは、お嬢様ご自身の足でございます』
「詩的な言い回しは要りませんの、ロベール!
欲しいのは数値ですわ!」
思わず叫んだ声が、無人の調理室に反響しました。
適量。
適当。
加減。
なんて曖昧で、非科学的な単語でしょう。
魔導学の世界では、あらゆる現象は数式で記述できます。
ならば料理だって、数式で解けるはずですわ!
わたくしは指先に淡い魔力を灯し、卵に近づけました。
「熱量観測術式、起動」
卵の内部温度が、宙に浮かぶ数字となって現れます。
六十八度。
七十二度。
理論上、この温度が最高のとろとろ加減。
「完璧ですわ。
あとは火のマナを一定に保つだけ」
——結果を、正直に申し上げます。
卵は三つ、爆発しました。
魔力が強すぎたのです。
殻の内側で水分が急激に膨張し、ぱんっ、という小気味よい音とともに、わたくしの頬に黄身がべったりと飛びました。
一位を目指す公爵令嬢の顔に、黄身。
屈辱です。
「……いいえ、まだ始まったばかりですわ」
わたくしは制服の袖をまくり、ハンカチで頬を拭いました。
失敗は、データです。
データがあれば修正できる。
魔力の出力を三割落とし、加熱の時間を秒単位で刻み、塩は一粒ずつ、魔力の秤で量りました。
お米も、そう簡単にはいきませんでした。
聖樹米は粒がとても繊細で、火が強ければ芯が残り、弱ければ粘りが出すぎてしまいます。
二度炊いて、二度とも失敗。
三度目は蒸気の流れを風の魔法で整え、ようやく粒が立ちました。
その途中、はねた火花がエプロンの端に燃え移り、慌てて自分の袖ごと凍らせるという騒ぎもありました。
髪の先が少しだけ焦げたのは、内緒です。
夜が更けるにつれて、調理台は戦場の跡地のようになっていきました。
焦げたバター。
ひび割れた卵焼き。
固まりすぎたプリンの残骸。
失敗作は、残さず食べました。
捨てるのはアストレア家の家訓に反しますもの。
……焦げたバターの味は、二度と思い出したくありませんけれど。
けれど不思議なことに、わたくしは少しも退屈しませんでした。
魔法陣の研究と同じ。
いいえ、それ以上に、指先の感覚ひとつで結果が変わる繊細さに、胸が高鳴っていたのです。
デザートは、瞬間凍結の応用で挑みました。
苺のソースを薄い層に流し、フラッシュ・フリーズで固め、その上にクリームを重ねる。
氷の魔法で、ソースの温度をぴたりと零度に止める。
何層も何層も。
凍らせすぎては硬くなり、足りなければ崩れる。
まるで魔力制御の実技試験のようでした。
「……ここで、熱量を、〇・二度だけ緩める」
一皿完成したとき、時計は午前三時を回っていました。
黄金色に巻かれた卵焼きと、赤と白が美しく層になったパフェ。
わたくしは銀のスプーンを手に取り、恐る恐る一口すくいました。
「……悪く、ありませんわ」
けれど、それだけでした。
卵焼きは形こそ整っていて、パフェは層の一本一本まで美しい。
おいしいことは、おいしいのです。
それなのに、口の中に広がるのは「正解」の味ばかりで、心がふわりと持ち上がるような感覚がありません。
あの日のお弁当ほどの感動はない。
舌が知っています。
あれとは何かが違うのだと。
数式に足りないものが、まだ何かあるのだと。
「そこの生徒。
こんな時間に、火気を扱っているのですか」
背後から響いた声に、わたくしの肩が跳ねました。
振り向くと、扉の前に、ランタンを提げた女性が立っています。
きつく結い上げた深い紫の髪。
鋭い眼鏡。
堅苦しいローブ。
ヴェラ教官でした。
学院一厳しいと恐れられる、魔導実技の担当教員です。
「あ、あの、これは違うのです!
研究目的で、許可は正式に……!」
「許可証は、午後十時までと記載されています」
「……申し訳ありません」
ヴェラ教官はランタンを置き、調理台をゆっくりと見渡しました。
爆発した卵の殻。
黒焦げの鍋。
そして完成したばかりの二皿。
眼鏡の奥の視線が、ほんの少しだけ、柔らかくなった気がしました。
「熱量観測に、魔力の秤。
方法は理論的です。
ですが、アストレア」
「はい」
「魔法は正確です。
しかし料理は、正確なだけでは足りません」
その言葉に、わたくしは息を呑みました。
「食べる人の顔を、想像なさい。
その人が何を好み、どんな時間に、どんな気持ちで食べるのかを。
そこにマナを乗せて初めて、料理は美食魔法になるのです」
——食べる人の顔。
思い浮かべたのは、あの男の顔でした。
空っぽの容器を前に、深く息を吐いたときの、無防備な表情。
そして、まっすぐにわたくしを見て言った、あの言葉。
『今まで食べたどんな高級料理よりも、これがうまかった』
あれは、シェフのロベールへの賛辞ではありません。
ロベールには、伝わりようがないのですもの。
屋敷の者たちは皆、わたくしの言葉に「仰る通りです、お嬢様」と頷くばかり。
学院でも、公爵家の名の前では、誰もが言葉を選びます。
本当のことを、本当の顔で言ってくれる人は、ほとんどいませんでした。
だから、あの一言が耳から離れないのです。
あの言葉を受け取ったのは、わたくしです。
なのにあの男は、翌朝になって「シェフに会わせてくれ」などと言い出して。
「……面白くありませんわ」
「何か、おっしゃいましたか」
「いいえ、何も!」
ヴェラ教官は小さく咳払いをして、眼鏡の位置を直しました。
「明日の決闘、審判は私が務めましょう。
今夜のことは不問にします。
ただし、片付けは自分で。
……それと、その卵焼きは、もう少し弱火で」
「は、はい!」
扉に手をかけたところで、教官はもう一度だけ振り返りました。
「魔法は嘘をつきません、アストレア。
込めた気持ちは、いずれ味に出ます。
……お休みなさい。
といっても、もう朝ですが」
教官が去ったあと、わたくしは一人で調理台を磨きました。
窓の外では、東の空が薄い桃色に染まり始めています。
徹夜など、生まれて初めてですわ。
わたくしは、あの男に勝ちたいのです。
魔力でも、序列でもなく、あの「うまい」という一言を、今度こそ、わたくし自身の料理で。
「……ライバルとして、ですわ。
ええ、それだけです」
誰も聞いていないのに、わたくしは小さな声で言い訳をして、火を入れ直したフライパンを握りしめました。
決闘までは、あと十時間ほど。
その間に、卵焼きをあと五回は練習できます。
ひと口食べた瞬間の、あの男の顔。
それを想像しながら、わたくしは扇のかわりに菜箸を構え、もう一度だけ、卵を割りました。
今度こそ、爆発させずに。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。今日のご飯のメニューは決まりましたか。もしこのお話でお腹が空いたら、ぜひ感想やおすすめの料理をコメントで教えてくださいね。それでは、また次の話でお会いしましょう。




