第二章 綾乃 エピソード3
そうそう、あのときの僕の心の動きを初恋と呼ぶのなら、そうなんだろうなと、今振り返ってみて思う。
日が経つごとに、一輝たちや咲も含めて、クラスメイトたちの関心は、綾乃から離れていった。日増しに高まっていく『受験』という言葉の持つ重み、考えてみれば、他人のことに関心を抱いている場合ではなかった。みんな、勉強に必死だった。
だけど、誰も綾乃に関心を示さなくなったことが、ある意味で僕にはプラスに作用した。
あるとき、席替えがあって、僕はたまたま綾乃と席が隣同士になった。僕は瞬時に舞い上がった。だけど、それがどうしたと言わんばかりに、表情だけは平静を装う。
隣同士なので、否が応でも綾乃の動作が目に入ってくる。机に向かいながら、髪をかき分ける姿を見ただけでも、僕の心臓は高鳴った。
そんな僕に、綾乃と話すチャンスが訪れた。数学の授業で、先生から隣同士で問題の解き方を話し合うようにと、言われたのだ。「これからは、自分たちの力で問題を解決しなきゃいかん」年配の先生は、そう言って、僕たち生徒に自力解決を促した。単に自分が話し疲れたから、間を取るためにそうしているだけとしか思えなかったが……。
僕は、その手の時間が苦手だった。問題解決のためとは言え、誰かと話さないといけなかったから。それに、下手をすれば、話し合った結果を全員の前で報告するように、指名されかねない。
不安や憧れ、困惑や希望、様々な感情が心の中で渦巻く中で、僕は綾乃に声をかけた。
「こっ、この問題、どうやって解いたらいいのかな」
もちろん綾乃は、口を真一文字に結んだままだった。
焦りから、頭に手を遣る僕。それから、沈黙の時間が流れる。なんとかしたいと思った。このチャンスを逃してしまったら、二度と綾乃とかかわるチャンスは訪れないかも知れない。
僕は、とっさにノートの空きページを開くと、自分で考えた解き方を書いてみた。だけど、どうしても最後の部分がわからなくて、ノートの端に「この先、どうやったら解ける?」と吹き出しにして書いた。
すると、どうだろう。綾乃は、少し考える素振りを見せたかと思うと、僕が鉛筆で書いた吹き出しの下に、赤鉛筆で「私なら、こうするかな」と書いた。そして、僕がノートに書いていた解き方の続きを、丸みを帯びた字で書き足した。
「あっ、できた」
僕は、思わず喜びの声を上げた。問題が解けたことよりも、綾乃と話せた嬉しさから出た言葉。
綾乃は、僕の顔を見上げて、ニッコリと笑ってくれた。頬がわずかにピンク色に見えたのは、窓の外から降り注ぐ太陽の光が当たっているからだろうか。
僕は、ノートの端に、「意外と簡単だったね」と書き込むと、綾乃は「うん」と赤鉛筆で書き込む。
「はい、全員、自分の席に座るように」
先生の言葉で、綾乃との会話はそこで途切れたのだが、それからだっただろうか、綾乃と筆談を交わすようになったのは。もちろん、それは先生から指示されて、授業中に意見を交わすときに限ったことだったが、それでも数学の時間は一日のうちで最低でも一回は巡ってきた。数学はどちらかというと苦手な方だったが、退屈な授業が待ち遠しくなった。
そのときの数学のノートは、今でも大切に取ってある。ふと、どこにしまっていたかなと思って、まだ開けていない机の抽斗の中を探してみる。「あった、あった、このノート」僕のクラスでは、一か月ごとに席替えをしていたので、綾乃と筆談を交わしたノートは、この一冊だけだったが、ページをめくってみると、黒と赤の吹き出しが交互に並んでいて、ドキドキしながら書き込んでいた当時の僕の心境が、ありありと蘇ってくる。
筆談に味を占めた訳ではないけれど、綾乃と会話する方法を知った僕は、席替えをして綾乃と離れてしまってからは、毎朝、綾乃の下駄箱の中にメッセージカードを入れた。百円ショップで買ってきた、名刺サイズの花柄のカード。長い文章を書くのが苦手だった僕にとって、その大きさのカードは、「おはよう。今日も頑張ろう」とか、「昨日のテスト、難しかったね」と言った、さり気ない言葉を残すにはちょうどよかった。
僕が書いたメッセージカードに対して、いつしか綾乃も、返事を書いてくれるようになった。僕が書いているのと同じような大きさの、動物のイラストがプリントされたカードに。まるで文通をしているようだったが、文通と違うのは、お互いに深入りしなかったこと。名刺サイズのカードなら、自ずと書ける文字数が限られてくる。それが、綾乃とのほどよい距離を保ってくれていたのかも知れない。
教室で渡すのではなくて、わざわざ下駄箱にカードを入れていたのは、クラスメイトたち、とりわけ一輝たちに気づかれないため。もしも、僕が綾乃とやりとりをしていることがバレてしまったら、たちまち話のネタにされてしまっただろう。友達以上恋人未満、いや、友達と言えるほど仲良くなった訳ではないので、それはちょっと違うかな。誰にも気づかれることなく、つかず離れずの関係を続けているだけで、僕は十分だった。




