第一章 翔太 エピソード1
混雑した帰宅ラッシュの電車の中は、ちっとも冷房が効かない。使い古したハンカチをスーツのポケットから取り出して、額からにじみ出る汗を拭ってみる。
窓の外を、街の光がゆっくりと通り過ぎていく。夜空を突き刺すように建っているオフィスや高層マンション群は、大都会の繁栄の象徴だろうか。
郊外に向かう急行電車は、今日も大勢の疲れた表情の客たちを乗せて、のろのろと走っている。前方に各駅停車が走っていて追い抜けないからだが、自転車で追い抜けるのではないかと思えるほどのゆっくりとしたスピードは、今の僕の心の中を表しているかのようでもどかしい。
「何度、同じ失敗を繰り返したらわかるんだ」
熊のように獰猛で高圧的な上司に怒鳴られた。しかも、他の課員たちの前で。「営業マンなら、契約を取れてなんぼのもの、契約が取れるまで帰ってくるな」と、続けた。
「これって、今流行りのなんとかハラスメント?」
そう心の中で呟いてみるが、他の課員たちは僕に同情するどころか、皆黙々とパソコンの画面に向かうか、愛想笑いを浮かべながら客との電話に夢中になっている。
確かに、課長が声を荒げるのもわかる。今月の営業成績というか、ここ半年ほど続けてだが、僕は全部で十人ほどいる課員たちの中で最下位。その営業成績を示したグラフを、わざわざ僕の目につくところに貼ってあるものだから、他の課員たちに助けを求める訳にはいかなかった。
今どき、小学生相手の教材販売が、うまくいくとは思えない。第一、子供は遊びが仕事じゃないか。そんな子供たちに、『AIを使った学習診断』とか『タブレット片手にちょこっとスタディ』かなんだか知らないけれど、それらのものを売り込んだとしても、子供たちが喜んでやる訳がない。
でも、苦労して新卒で入った会社だった。僕の引っ込み思案な性格が災いしてか、就職活動をしていて受けた会社は全部落ちた。テレビをつければ、転職サイトのCMを見ない日はないけれど、今さらこの会社を抜け出して、世間の荒波に揉まれようなんて勇気は僕にはない。
こうやって、毎日同じ景色を眺めながら、「ハァッ」とため息をつく日が、これからもずっと続いて行くのだろうか。
前を走っていた各駅停車の明かりが後ろに流れて、僕の乗った急行電車は、目の前のつっかえが取れたのか、甲高いモーター音を響かせながら加速していく。
こないだ数年ぶりに会った一輝たちが羨ましかった。実家の酒屋を継いだ一輝は、最近の地酒ブームにあやかって、地元の酒を全国に通信販売する事業に乗り出すという。今はその準備に忙しそうだったが、連続ドラマの中でその酒が取り上げられて人気が出てきていると言うから、きっと成功を収めるに違いない。
雄大は雄大で、難関国立大学を出て、超がつくほどの一流企業に勤めていると話していた。誰もが知る携帯電話会社の本社勤務。会ったときはカジュアルにTシャツに黒のパンツ姿だったが、長身で整った目鼻立ちの彼は、流行りのアイドルグループのメンバーのような出で立ちだった。普段はきっと、ブランドもののスーツでびしっと決めて、颯爽と出社していることだろう。
そんなことをあれこれ考えているうちに、僕の乗った急行電車は、いくつかの駅に滑り込んで客たちを降ろしていった。窓の外に見える街の明かりがまばらになっている。いつもなら、この辺りまで来れば空席にありつけるのだが、今日はその空席も見つからない。なんだか、運にまで見放されているようで、僕は窓に映る自分の顔に向かって、「ハァッ」とまたため息をついてしまった。
あぁ、このまま、僕を悩みのない世界へと連れて行って欲しい。僕が自分らしく過ごせる世界に……。
「まもなく、希望が丘に到着します」
合成音のアナウンスが流れる。僕が住んでいるところの最寄り駅。『希望が丘』なんて洒落た名前がついているけれど、その名前とは裏腹に、駅前のロータリーには住宅街に向かうバスがポツンと佇んでいるだけの寂れた駅。それでも、僕が高校生ぐらいまでは、駅前にファストフード店とカラオケボックスがあったのだが、新型コロナウイルス感染症がまん延したときに店を閉めてしまった。もともと繁盛しているお店ではなかったから、それを口実に店を畳んだのかも知れないが……。
人がまばらの改札口を抜ける。「ピンポン~」と鳴って、改札機が通せんぼをする。そうだ、定期を切らしていたのだ。行きはICカードに残っていた残高で通れたものの、今は恐らく残高が足りなくなっているのだ。何しろ、片道七百円もするのだから……。
「ハァッ、今日はどこまでもついていない」
そう呟くと、横にあった精算機へと向かったのだった。




