第三章 初恋 エピソード4
家に帰った僕は、母が作ってくれた夕飯を全部食べた。本当は、カラオケボックスでポテトフライや唐揚げをつまんでいたので、それほどお腹は減っていなかったが、なんとなく残してしまうのが母に申し訳なくて、無理やり食べたのだった。
それにしても、最近、食が細くなったように思う。中学生の頃は、夕飯をお腹いっぱい食べても、まだ夜食を食べたいと思っていたほどだが、最近はお茶碗にご飯一杯と、おかずを少し箸でつついていたら、すぐにお腹が膨れてしまう。
これも、十代の頃の身体とは違ってきているということだろうか。これまで、自分が齢を取っているなんて、考えたこともなかったが、大学を出て就職してからは、月日が経つのがあっという間のような気がする。先週、お正月を迎えたと思ったら、もう桜が咲く季節になっていると言った感じ。そうこうしているうちに、三十歳を迎えるのかと思うと、何もできない今の自分が嫌になってくる。
自分の部屋に上がった僕は、洋服ダンスを開けてみる。仕事に着て行くスーツやジャンバーなどの上着に混じって見つけたのは、『希望が丘中学校』の名にふさわしく、虹のかかった校舎を模したエンブレムのついた、紺のブレザーの制服。もう着ることはないので、卒業と同時に処分してしまってもよかったのだが、なんとなく僕の青春の日々が詰まっているような気がして、ずっと手放さないでいたのだった。
上着のポケットに手を入れてみる。確か、ここにしまったままだったはず。すぐに指先が何かに触れる感触があった。
取り出したのは、中学校の卒業式の日に、下駄箱の中で見つけたメッセージカード。月見草のイラストが入っているのは当時のまま。ずっとポケットの中にしまってあったので、色あせることなく、当時のまま残っていた。
『1-1 1-2 3-2 4-2 9-3』
そこに書かれた暗号のようなものを、じっと眺めてみる。確か、僕が在籍していたクラスのことを指しているのかとひらめいて、それまでのクラスのことに思いを馳せたが、それでは辻褄の合わない箇所が出てきて、考えるのを諦めたのだった。
改めて、その暗号を解こうと、疲れた頭をフル回転させてみせる。『1-1』をそのまま読むと一年一組と読めそうだが、他の読み方はあるだろうか。一丁目一番地ではないだろうし、一階の一号室というのも違うような気がする。僕よりも前の世代に流行った国民的テレビゲームでは、『1-1場面』なんて、そのコースのことを指して呼んでいたそうだが、まさか綾乃がテレビゲームに興味があったとは思えない。
「あぁ、やっぱりわからない。お手上げだ」
頭をぐしゃぐしゃにかいて、掌を上向きにして、お手上げのポーズをしてみせる。お風呂に入って、気分を入れ替えたら、何かアイデアがひらめくかも知れない。そう思った僕は、「はぁっ」と大きくため息をつきながら、階段を下りた。
両親がお風呂に入っていないことを確認するために、リビングを覗いてみる。父は、次の日の仕事のためにすでに寝室に向かったようだったが、母が鉛筆片手に何やら雑誌のようなものを開いて、難しそうな顔を浮かべていた。そっと、母に近づいてみる。
「母さん、何をやっているの?」
何となく訊いてみると、母は僕の顔を見上げて、
「あぁ、なんだ、翔太……これなのよ。クロスワードパズル。あと一つわかれば完成して、懸賞に応募できるんだけどね。その最後の一つがなかなか難問で……」
と、言った。
「なんだ、クロスワードパズルかぁ。ちなみにどんな問題なの?」
そう言いながら、母が見ていたページを覗いてみる。
「えっと、なになに、縦のカギ3……月見草の花言葉『打ち明けられない○○』……なんだ、母さん、こんなの必死に考えなくてもさ。ネットで調べればいいんだよ」
そう言って、ポケットの中からスマホを取り出して、検索欄に『月見草 花言葉』と入力してみる。いくつか意味がありそうだったが、クロスワードパズルの空欄に合いそうな言葉は、『こい』だった。
「あら、『恋』だったの。簡単に調べられて、便利な世の中になったものだわね。お母さんが若い頃は、わからないことがあったら、図書館に行って本を借りてきて調べたものよ。でも、翔太のおかげで完成したわ。イェーイ」
母は、ピースサインを作って、空いているマスに『こい』と書き入れる。
他にどんな問題が書いているのかが気になって、書かれている問題を見てみる。
「なになに、横のカギ2……ウサギ、キリン、スズメ、トカゲ、アヒル、仲間外れは?」
飛ぶ生き物とそうでないものに分けて、スズメと答えそうになったけど、いやまてよ、アヒルって飛ぶんだったっけ。そんなことを呟いていると、母が得意げに言う。
「翔太、違うわよ。答えはトカゲ。中学校の理科の授業で習ったでしょ、恒温動物って言葉を」
「こうおんどうぶつ……あっ、そうか、確か哺乳類と鳥類が恒温動物だったっけ。それでいくと、トカゲは爬虫類になるから、仲間外れって訳か。へぇ、なかなかよくできている問題だね。横と縦でそれぞれ答えを埋めていって、書いた言葉がうまく重なる訳だから……」
深入りするつもりはなかったけれど、よく考えられた問題に感心してしまった。
そのとき、ある考えが僕の頭の中に浮かんだ。横と縦、いや、行と列、もしも『1-1』が何かの表の一行目の一列目を表しているのだとしたら……でも、その表ってなんだろう。真っ先に浮かんだのは、小学校で習ったかけ算九九。『1-1』は『1×1=1』、『1-2』は、『1×2=2』という訳だけど、それでいくと、『1-1 1-2 3-2 4-2 9-3』は、『1,2,6,8,27』となる訳だが、だからって特に規則性もなさそうなこれらの数字が、何かを表しているようには思えない。第一、メッセージカードに書いてあったことだから、数字ではなくて、言葉でなければ意味がない。
「言葉、ことば……」と口に出して言っているうちに、突然ひらめいた。小学一年生の国語の教科書に出てきた、ひらがなの五十音表。まさかそんな単純なことかと、首を傾げながらも、それでいくとどうなるんだろうかと、気持ちが焦って空回りする。
『1-1』は、一行目の一列目の文字で『あ』、『1-2』は一行目の二列目の文字で『い』、『3-2』は『し』……。
「あっ、そういうことだったのか」
思わず、声に出してしまった。激しく心臓が脈打っている。顔が紅潮して、軽いめまいを覚えた。
「どうして、あのとき、気づかなかったんだろう」
自分の迂闊さを悔いる。
「ちょっと、翔太。さっきから、どうしたのよ。そういうことだったとか、気づかなかったとか、独りごとを言って、どこか具合でも悪いの?」
その声にはっとなって正気に戻ると、母が訝しげに僕のことを見つめていた。
「あっ、ははは、母さん、何でもないよ。僕も会社で配られた福利厚生のパンフレットの、クロスワードパズルにチャレンジしていてさ。今、ちょうどわからなかった問題でひらめいたんだ」
とっさに言い訳をする。
顔は笑っていたが、心の中では波が立っていた。それも、冬の日本海の岩場に押し寄せるような荒波が。




