第三章 初恋 エピソード1
木枯らし何号かが吹き荒れる季節になった。朝晩は冷え込みが厳しくなり、街路樹にはちらほらと、電飾の明かりが灯り始める。寒さがそうさせているのか、それとも一年で一番華やかなイベントを前に浮かれているのか、街行く人々は皆、足早に目的地へと向かっていく。
会社を出た僕の足取りは重たかった。スーツ姿のサラリーマンたちが、魚を焼く香ばしい匂いと赤提灯の明かりに誘われて、次々に暖簾をくぐっていく中を、僕はとぼとぼと駅に向かって歩く。
駅のホームで電車を待っているとき、不意に誰かに声をかけられた。
「翔太じゃないか」
声のした方を振り向くと、そこには雄大がいた。ブランド物のスーツではなくて、パーカーに綿のパンツという出で立ちで。
「あっ、雄大、今日は仕事、休み?」
とっさにそう訊いたのは、カレンダー通りに動くサラリーマンの習性からだろうか。
「いやぁ、そういう訳じゃなくてね」
雄大はそう言うと、黙って僕の横に並んだ。
「実は、会社を辞めたんだ」
「えっ、辞めた?」
一オクターブほど、声が上がってしまった。
「あぁ、辞めて、先月から大学に通い始めているよ」
「だっ、大学?」
雄大が仕事のことで悩んでいることは、一輝からそれとなく聞いていたけれど、雄大の口から『大学』と言う言葉が飛び出して、驚きを隠しきれなかった。一体どう言う訳だろう。
ちょうどそのとき、電車がホームに入ってくるのに、話を遮られた格好になってしまった。そのまま電車に乗り込んで、吊革を持ちながら雄大と並んで立つ。電車はいつものように、夜の帳がおりた街をノロノロと走り出した。
お互いに無関心を装うことで、ある種の秩序が成り立っているラッシュ時の車内では、会話することもままならず、視線のやり場に困った僕は、窓の外をぼんやりと眺める。
雄大の言った『大学』の意味を知りたかったが、ここで訊く訳にはいかない。雄大がクールな表情を浮かべているのとは対照的に、虚ろな表情を浮かべてばかりいる僕の顔はどこか老けていて、とても同級生同士とは思えなかった。
それから長いこと、沈黙の時間が流れた。電車が、最寄り駅の一つ手前の停車駅に入りかけたとき、
「ちょっと、ここで降りてみないか?」
と、雄大が言った。
「えっ、あぁ……」
戸惑いながらも、とっさにそう答える僕。その駅は、この都市近郊の私鉄路線の中では、大きい部類に入る駅で、駅の改札に直結して老舗デパートが今も営業していて、人々で賑わっていることを知っていた。一歩駅を出ると、大小様々な飲食店や商店が立ち並んでいて、ちょっとした繁華街が広がっていることも。
「久しぶりにカラオケに行かないか。ほら昔、よく一輝と一緒に行っていたじゃないか」
駅前のロータリー越しに見える、全国チェーンのカラオケ店の看板を指さして、雄大が誘った。
「えっ、あっ、別にいいけど……」
カラオケとは驚いた。飲みに行こうと言うのならわかるけれど、まるで学生の頃のようにカラオケに行くことになるとは……。しかも男二人で。だけど、その理由はなんとなくわかった。僕はお酒が飲めないのだ。正確には、飲むとすぐに顔が赤くなって、気分が悪くなってしまう。そのことで、職場の親睦を兼ねた飲み会では、課長から「君はつまらない人間だな。酒を交わして、語り合えないのか」と、嫌味を言われたこともあったけれど。
とにかく、雄大は、僕が酒を飲めないことを知っていて、あえてカラオケを選択したのかも知れない。あるいは、カラオケボックスのような外部と遮断された部屋で、何か大切なことを語ろうとしているのだろうか。




