第二章 綾乃 エピソード6
「翔太、あなた何しているの。早くお風呂に入りなさいよ」
一階から呼ぶ母の声ではっと我に返る。とっさに目覚まし時計に目を遣ると、時計の針が間もなく午後十一時を指そうとしていた。しまった、ここで卒業アルバムを開いて、当時のことを振り返っているうちに数時間が経過していた。母が一階から呼んだからよかったものの、もしもアルバムを開きながら感傷に浸る姿を見られでもしたら、なんて言って言い訳をしたらよいのだろうか。
僕はとっさに、部屋の扉を開けて、
「わかった。もうすぐ入るよ」
と、答えた。
アルバムのページを閉じて、表紙に刻まれた『希望が丘中学校卒業記念』という言葉を、ぼんやりと見つめる。
その輝かしい卒業式の日だが、ちょっとしたハプニングがあったっけ。
体育館で行われた卒業式に参加した僕たちは、慣れ親しんだ教室に戻って、最後の授業を受けていた。
普段は、クマのように鋭い眼光を向けていた担任の先生が、その日ばかりはやけに穏やかだった。先生がゆっくりと読み上げる点呼に対して、涙ながらに返事をするクラスメイトたちの姿があった。
ホームルームでの先生の長々とした話も、誰一人わき目もふらずに聞いていた。
「どんなことがあっても、何度でも立ち上がるんだぞ。必ず、自分の頑張りを見ていてくれる人がいるからな」
昔流行ったとか言うドラマになぞらえて、そんなことを話していたと思う。
それから授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、僕たちは互いに顔を見合わせた。これが鳴り終わると、僕たちは別々の道を歩むことになる。名残惜しいというか、去りがたいというか、誰もがそんな心境だった。
先生と最後の挨拶を交わした生徒たちは皆、机の中に残っていた荷物とたくさんの思い出を鞄に詰めて、春の穏やかな光が明るく照らす廊下を、胸を張って歩いて行った。
とまぁ、そこまでは他のクラスメイトたちと違わず、僕も感動的な雰囲気の中で古巣を旅立とうとしていた訳だが、下駄箱を開けて通学用の靴に履き替えようとしたとき、両足の靴に挟まるようにして、何かが差し込まれているのが目に入ってきた。
名刺サイズの紙のようなもの。それを手に取った瞬間、それが何であるのかがわかった。だけど、まわりに教室から出てきたクラスメイトたちがいて、その場でそれを確認することができなかった。
僕は、他の人たちの目を盗むように、グラウンド脇の桜の木の下に向かった。そこにいれば、誰からも気づかれることがなかったから。
胸をドキドキさせながら、ブレザーのポケットの中に手を入れる。動物のイラストではなくて、ピンクや白の花のイラスト。どこかで見たことのあった花だったが、バラやチューリップのように、すぐに名前は浮かんでこなかった。右下に、『月見草』の文字が見えたので、そう呼ぶのかと納得する。
綾乃からのメッセージであることは、見慣れた丸まった字体からすぐにわかった。だが、そこに書かれていた言葉が問題だった。『1-1 1-2 3-2 4-2 9-3』
「なんだこれ?」
思わず口に出してしまった。とっさに浮かんだのは、自分がかつて在籍していたクラスの呼び名。『1-1』は一年一組。小学校に入学したとき、僕は一組だった。三、四年生のときは持ち上がって二組、そして『9-3』の『9』を中学三年生と見れば、九年三組と言えなくもない。だけど、『1-2』はおかしい。小学二年生のときも持ち上がって二年一組だったので、『2-1』と書くべきではないのか。あっ、中学一年生のときは二組だったので、『1-2』と表すこともできるが、でも中学三年生を九年生と書くことに倣えば、『7-2』ではないのか。なんだか、頭が混乱してよくわからなくなってきた。
その場で綾乃に確かめればよかったのだが、あいにく僕は人目に付かない場所にいる。それに、綾乃はすでに帰ってしまっているだろう。なんとなく胸騒ぎを覚えたが、いずれにせよ綾乃とは別の高校に行くことになっていたし、もう会うこともないだろう。
「お~い、翔太、どこにいるんだ?」
一輝の声が遠くから聞こえた。あっ、そうだった。一緒に帰ると約束していたのだった。
僕は、メッセージカードをポケットの中に入れると、何事もなかったかのように、一輝たちのもとに走って行った。




