第4話 描けない魔法
そびえ立つ巨塔群の中心──
魔導枢軸都市エル=フィリアの一角に位置する、ローゼンヴァルト神聖魔導院。
最上階にある重厚な総監執務室には、ただならぬ緊迫感が漂っていた。
「……この報告書は、一体どういうことなのかね。エレノア・ローゼンヴァルト特級魔導士」
彫刻のように硬質な顔立ちの初老の男──
総監ヴァルハイトが、山積みの書類から視線を上げて冷徹に問う。
エレノアは怪我の手当を終えたばかりの身体で、
銀縁眼鏡の位置を微動だにせず直すと、手元の書類の角をトントンと机の上で完璧に揃えて一歩前に出た。
「報告書に書いてある通りです、ヴァルハイト総監」
「爆発の衝撃で再起動した古代の守護機兵を、たまたまその場に居合わせた平民の少年が……『申請魔法』とやらで停止させた、と?」
ヴァルハイトの硬い指先が、デスクの木目を重く叩く。
「……この魔導院の頂点に立つ私に、本気でそれを信じろと言うのかね」
「停止しただけではありません」
エレノアは真っ直ぐに総監を見つめ返し、一瞬の澱みもなく告げた。
「崩落で埋塞した坑道を、その機兵の腕力を用いて切り拓き、我々を脱出させました。すべて、彼の命令に従って、です」
重苦しい沈黙が室内の空気を押し潰す。
エレノアが偽りの報告など口にするはずがない。それを理解しているからこそ、目の前の現実が受け入れ難いのだ。
「……そして」
エレノアは声を潜め、確信に満ちた眼差しを向ける。
「『星導賢者 アストリオン』。その名が、他ならぬあの少年レオンの口から紡がれました」
その名が放たれた瞬間、ヴァルハイトの眉根がわずかに跳ね上がった。
「……その名が、彼の口から出たと……?」
「はい」
「あの機兵は……創世神話におけるアストリオンの遺物であると、我が魔導院の極秘資料にのみ書き残されている一級禁秘。晶坑育ちの平民が知り得るはずもない……か」
ヴァルハイトはゆっくりと立ち上がり、窓の外に広がる高密度の魔力が循環する都市を見下ろした。
「……その守護機兵は、今どこにある?」
「『王立星導技術研究所』へ移送されました。軍事解析を進めるとのことです」
「当然の措置だな」
ヴァルハイトは喉を鳴らすように微かに笑った。
「我が国の兵器として並べば戦況は一変する。我がローゼンヴァルトの悲願である魔導技術の覇権も、我らが握ることになるだろう」
総監は冷たい眼光をエレノアへ向けた。
「それと──このレオンという少年は、今どこに?」
エレノアは昨日目撃した少年の「世界のルールを塗り替えた筆跡」を思い浮かべながら、静かに答えた。
「彼は今──」
◇
晶坑の崩落を未然に防ぎ、ローゼンヴァルト家の令嬢を救った功績として、
レオンには平民の一年分に匹敵する多額の報奨金が支払われた。
それだけではない。
エレノア自身が即座に手配を行い、神聖魔導院の特級紹介状が発行されたのだ。
ミレナは劣悪な晶坑集落を離れ、設備が整った最高級療養院へと移ることになった。
一流の主治医による定期的な診察と、当面の生活費までがすべて保証されている。
ベッドの上ですっかり血色の良くなったミレナが、すやすやと穏やかな寝息を立てている。
これで、ミレナの安全は守られた。
だが──手元にある自分の白銀の筆『原典筆』を擦るレオンの表情は、晴れなかった。
【登録書式】
第一書式:【空欄】
第二書式:【守護者管理(状態:待機)】
第三書式:【空欄】
「……やっぱり、ミレナの治療書式が消えてる」
ミレナを救ったあの黄金の文字は、完全に消失していた。
一度書式を失えば、その奇跡は二度と使えない。
(今は、元気だ。でも……もしまた突然倒れたら?)
レオンは胸ポケットの奥を探り、昔あの羊皮紙を売りつけてきた胡散臭い旅商人の言葉を思い出していた。
『港町リーヴァの骨董市で仕入れた逸品だからな!』
大げさな売り文句だと思って聞き流していた言葉。
だが、今となっては世界で唯一の手がかりだった。
(あの男の仕入れ先なら……他にも同じような“紙切れ”が眠っているんじゃないか?)
「まずは……リーヴァだ」
港町リーヴァ。行商人も骨董商も集まる交易都市。
動かなければ、次の「もしも」が訪れたときに手遅れになる──。
◇
翌朝、朝靄が白く立ち込める街道。
見送りに立ったミレナは、胸元の白い花の髪飾りを小さく握りしめ、精一杯の笑顔をレオンに向けた。
「おにいちゃん。今度も、ちゃんと帰ってきてね。私はここで、お医者さまたちと良い子で待ってるから」
「……ああ」
レオンはしゃがみ込み、妹の小さな肩をぎゅっと抱きしめた。
「もう二度と、お前が苦しんでいるのに何もできないなんて思いはしたくない。だから、お前をずっと治していられる『書式』を探してくる」
「うん。行ってらっしゃい、おにいちゃん!」
ミレナの力強い言葉に背中を押され、レオンは荷馬車へ乗り込んだ。
動き出した馬車の向こうで、妹の小さな姿が朝靄の中に溶けていく。
◇
馬車に揺られること半日。
潮の香りが立ち込め、無数のマストがひしめく巨大な港湾都市──港町リーヴァが姿を現した。
活気あふれる雑踏の中、レオンが骨董市へ足を向けようとした、その時だった。
「おい、どけ! 接岸を急げ!!」
「だめだ! 防波堤の崩落が止まらない! 客船が激突するぞ!」
耳を突き刺す怒号と悲鳴。
見れば、交易の要である巨大客船が、崩壊しつつある防波堤に煽られて制御を失っていた。基礎石が次々と海へ滑り落ち、船の進路を塞ぐように瓦礫が海面を埋めていく。
「……なら、描き直すだけ」
雑踏の片隅で、ぽつりと。
指先を炭で黒く汚した少女の声が響いた。
風に吹かれる旅装束。背中には、不釣り合いなほど巨大な筒状の地図ケース。
少女──アイリスは、地面に大きな羊皮紙を乱暴に広げると、手にした炭筆を凄まじい速度で走らせ始めた。
「おい、あいつ……またあの『変な地図描き』か?」
「こんな時に絵なんか描いて何になる! 早く逃げろ!」
避難する人々が嘲笑を浴びせるが、アイリスの目は真剣そのものだった。
彼女の視線は、紙の上の線と、崩れゆく現実の防波堤だけを往復している。
彼女が描いているのは、崩れる前の、完全に固定された「正しい防波堤の図面」だった。
レオンが息を呑んで見つめる中、アイリスの炭筆が最後の境界線を力強く描き終えた。
「──【敷写】!」
その瞬間──。
ゴゴゴゴゴ……!!!
激しい水煙を上げ、海に沈んでいた巨大な基礎石が、まるで時間を巻き戻すかのように一瞬で海面へと浮上し、寸分の狂いもなく元の形へとカチリと組み合わさり固定された。
「な……っ!?」
「防波堤が、元に……!?」
巨大な建造物を「固定」する対価は、アイリスの身体を凄まじい勢いで削り取っていく。
彼女の顔から急速に血の気が引き、全身が激しく震えた。
「……っ、あと少し……っ!」
アイリスが歯を食いしばり、精神を極限まで擦り減らして維持するわずかな時間。
その命懸けの猶予の間に、制御を失っていた客船は無事に港内へと滑り込み、接岸に成功した。
だが、それが限界だった。
「う、あ……っ」
アイリスは膝をついた。
緊張の糸が切れると同時に、ガラスが割れるような音を立てて防波堤は再び激しく崩落し、元の瓦礫の山へと戻っていく。
アイリスは真っ青な顔で羊皮紙へバタリと倒れ込んだ。
震える指先から、炭筆がぽろりと転がり落ちる。
「また……定着しない……」
周囲の人々は肩をすくめ、冷ややかに吐き捨てた。
「だから言ったろ。欠陥魔法だ」
「数分も持たないんじゃ、何の役にも立ちやしない」
誰も倒れた彼女を助けようとはせず、通り過ぎていく。
だが──。
レオンの胸元で、『原典筆』が激しく脈打った。
倒れた少女へ近づくほどに、手首の痣が焼き付くような熱を帯びていく。
少女が倒れ込んだ広大な羊皮紙の図面──
その枠線に、あの「世界の法」の黄金の光が確かに揺らめいていた。
(まさか……)
レオンは吸い寄せられるように、ゆっくりと少女へ歩み寄った。
地面に突っ伏していたアイリスの指先が、ぴくりと震える。
ゆっくりと開かれた彼女の瞳が、迷うことなくレオンを捉えた。
彼女の視線は、まるでそこに何があるか知っているかのように、レオンの胸ポケット──『原典筆』がある場所へ吸い寄せられ、釘付けになった。
波の音すら遠のくような静寂の中、少女は掠れた声で呟いた。
「……あなたにも、見えるの?」




