第5話 同じ世界を視る者
「……あなたにも、見えるの?」
その言葉を絞り出した直後、アイリスは意識を失い、羊皮紙の光もふっと消えた。
港の人々は倒れた少女のことなど気に留めず、救われた船の接岸に歓声を上げている。
「……大丈夫、じゃないよな」
深い息を吐き、レオンは荒い息を吐く少女をそっと背負い上げた。
日差しの強い石造りの港町を歩き続け、広場の片隅にある大きな木陰を見つける。首から下げていた自分の鞄を地べたに敷き、少女の頭を慎重に横たえた。
年齢は十六、七歳ほどだろうか。
陽に焼けた小麦色の肌に、肩口で揺れる亜麻色の髪。飾り気のない旅装束には、幾重にも布を当てて縫い直した痕跡があった。
傍らに転がる背丈ほどもある筒状の地図ケース。
革は擦り切れているが、念入りに油が塗られ、大切に扱われてきたことが一目で判明する。
「……お忍びの貴族様では無さそうだな」
◇
海鳥たちの羽が夕暮れの朱に染まる頃、少女の指先がぴくりと震えた。
細い指。だが、爪の隙間には炭やインクが染み込み、幾重にも線を描き続けてきた者特有の黒い汚れが残っていた。
晶坑で過酷な炭掘りを続け、泥と煤が染み付いた自分の手。
そして、紙の上で世界を記述し続け、炭で汚れた彼女の手。同じ平民の出なのだろう。
虚ろだった少女の瞳が、ゆっくりとレオンを捉えた。
「……あなた、さっきの」
慌てて起き上がろうとする少女を、レオンは優しく手で制した。
「まだ寝てた方がいい。水でも飲むか?」
枕にしていた鞄から革の水筒を取り出し、差し出す。
だが、少女は水筒には目もくれず、身を起こしてレオンの胸ポケットを凝視した。
「あなたも……あの光が見えるのよね?」
レオンが言葉を詰まらせると、少女はどこか自嘲気味に、けれど屈託のない笑みを浮かべた。
「警戒しなくても大丈夫。わたしは怪しいものじゃない……いや、いきなり光が見えるか聞くなんて十分怪しいか」
ころころと表情を変えると、最後は笑顔で固定された。
「ごめんごめん! わたしは、アイリス。見ての通り、ただのしがない地図描きだよ」
相手の出方を窺うように、レオンは短く応じた。
「……おれはレオン。ベルグラードの晶坑で炭を掘ってる、ただの平民だ」
レオンはアイリスの手元へ視線を落とす。
「さっきの……防波堤のやつ、魔法なのか?」
「実は、わたしにもよく分からないんだ。いつの間にか使えてたから……だからなのか、すぐ元に戻っちゃう」
アイリスは膝の上の古びた羊皮紙を、愛おしそうに撫でた。
「本当に……“一瞬だけ”なんだよね」
自分を顧みず他人のために限界まで力を振るった少女へ、レオンは素直な思いを切り出した。
「……あの光のことだけど、見えるようになったのはつい最近なんだ。だから、あまり深く聞かれても答えられないと思う」
一呼吸置き、レオンは真直ぐに彼女を見つめる。
「でも、もしかしたら何か分かるかもしれない。……さっきの紙、見せてもらえないか?」
アイリスは目を丸くしたが、拒むことなく膝の上の羊皮紙を広げて見せた。
しかし──。
どれだけ凝視しても、そこには港の複雑な図面や線が細かく描かれているだけだった。
胸元の『原典筆』も静まり返り、微塵も反応しない。
(この紙は、違う……のか? じゃあ、さっきの光はいったい……)
レオンは俯いたまま紙を返した。
「……ごめん。やっぱり、おれには何も分からなかった」
「ううん、いいよ」
アイリスは優しく笑って羊皮紙を丸めた。
「今まで、あの光が見えた人なんて一人も居なかったから……ちょっとだけ、期待しちゃっただけ」
会話が途切れ、気まずい静寂が流れる。
レオンは膝を叩いて立ち上がった。
「じゃあ……そろそろ、おれは行くよ。人を探してるんだ」
「そうなんだ。見つかるといいね」
アイリスは木陰に座ったまま、手を振って見送ってくれた。
◇
広場を離れ、レオンは胸元の筆を握り締めながら思考を巡らせた。
(あの光は、ミレナの時やゴーレムを書き換えた時と同じ気配だった。なのに、どうして何も反応しなかったんだ……?)
答えは出ない。
レオンは思考を切り替え、本来の目的である『旅商人』の聞き込みを開始した。
だが、大きな商会に属さない流しの商人の足取りは酷く曖曖で、尋ねても返ってくる言葉は芳しくない。
「アイツらは大体みんな胡散臭いからな」
「まともな出元の奴らじゃないよ」
夜が更け、情報収集を諦めたレオンは、宿代を節約するために港の乗船待合所へと向かった。
「あっ……」
薄暗い待合所の長椅子に腰掛けていた人物が、顔を上げる。
使い古された大きな地図ケース。亜麻色の髪。アイリスだった。
「レオン……? また、会ったね」
「……こんなところで何してるんだ? アイリスはこの街に住んでいないのか?」
「うん。実はわたしも、人探しをしていて……」
アイリスが苦笑いを浮かべた、その時だった。
──ガシャァァァン!!
深夜の荷揚場の方から、何かが激しく破壊される轟音と悲鳴が響き渡る。
「おい! 荷崩れだ! 下敷きになってる奴がいるぞ!」
「だめだ、ウインチの鎖が噛み合って動かねえ! 早く人を呼べ!」
アイリスの顔から血の気が引いた。
弾かれたように立ち上がると、「助けなきゃ!」と叫んで荷揚場へと走り出す。レオンも後に続いた。
現場では、巨大な木箱の山が崩れ落ち、鉄製のクレーンアームが数人の作業員を地面に押し潰していた。人間の力ではびくともしない質量。
アイリスは走りながら背中から羊皮紙をひったくるように広げ、炭筆を爆絶な速度で走らせた。
「【敷写】……!」
世界が応じるように、黄金の光が弾ける。
崩落した鉄のアームと木箱がふわりと浮き上がり、空中でピタリと停止した。
「今のうちに、早く!!」
作業員たちが慌てて負傷者を引っ張り出す。
だが、巨大な質量を固定する負荷が、アイリスの身体を急速に蝕んでいく。
「う、あ……っ!」
激しい魔力の逆流に、アイリスは膝をついた。
「どうして……どうしていつも“一瞬”しか保てないの……っ!?」
彼女が涙を浮かべて悔しそうに叫んだ、まさにその瞬間だった。
レオンの『原典筆』が、またしても激しく脈動した──。
アイリスの魔法に引き寄せられるような強力な共鳴。
レオンの視界だけに、眩い黄金の光が溢れ出す。
アイリスが広げている羊皮紙の図面の上に、現実を規定する『仕様書』の文字がじわじわと浮かび上がってきた。
「──アイリス、紙を見るんだ!」
思わず叫ぶ。
アイリスは何度も紙を見返すが、その瞳には困惑しかなかった。
「なにも……なにも見えない!!」
彼女には見えていない。
だが、レオンの目にだけは、はっきりとその黄金の羅列が読めていた。
【原初命刻 第07号】
申請者:アイリス・アストレア本人に限る
権限識別:境界の描き手
解放詠唱:『エル・ラティア・ノア』
固定魔法:『ノア・フィクサ・テル』
レオンの瞳が大きく見開かれる。
「……っ、本人限定の申請書式……!?」
「解放詠唱……? 固定魔法……?」
「なんだよ、それ……」
レオンは息を呑み、黄金の文字を凝視した。




