第2話 眠れる守護者
乗合馬車に揺られて一週間。
村から遥か遠く離れた、王都アストラ直轄の『ベルグラード第一晶坑』に、レオン・アルヴェルの姿はあった。
「おーい、レオン! 手が止まってるぞ! サボるなら期間延長するぞ!」
「すいません! 今やります!」
先輩鉱夫の野太い声に、レオンは慌ててツルハシを振り下ろした。
カツン、と乾いた音が坑道に響く。
自分の刑期や罰金がどうこうなんて、どうでもよかった。
ミレナが生きて、ご飯を食べている。それだけで、レオンの手は軽かった。ツルハシを握り直すたび、作業着の袖から覗く左手首の黒い痣が、汗で濡れてかすかに熱を持った気がした。
晶坑に来て二週間が経過した頃、村の老医師から一通の手紙が届けられた。
薄暗い休憩所の隅で、レオンは泥のついた指先で慎重に封を切り、中にあった小さな羊皮紙を広げた。つたない、けれど一生懸命に書かれたミレナの文字だった。
『お兄ちゃん、私はお医者様のおかげでもうすっかり元気になって、ご飯もいっぱい食べられるようになりました。お医者様から、お兄ちゃんが私のために、村の倉庫から食べ物を盗んでお仕置きに行かされたって聞きました。お兄ちゃん、私のせいで泥棒にならせちゃって、本当にごめんなさい』
『でもね、私はもう大丈夫。村の学校に行って、遅れた分もいっぱい勉強して、今度はお兄ちゃんに恩返しするんだから! だから、もう二度と私のために危ないことや、いけないことはしないでね。大好きだよミレナ』
手紙の隅には、ミレナが摘んだ小さな白い花の押し花がそっと添えられていた。
レオンは何度も手紙を読み返し、優しく折りたたむと、胸ポケット──あのインクの出ない黒い筆のすぐ隣に、お守りのように仕舞い込んだ。
その時だった。
坑道の上層から、何騎もの護衛を連れた一団が下りてくるのが見えた。王都アストラから視察に訪れた、星祈大聖堂の一行だった。
先頭を歩く豪奢な法衣の老神官の傍らで、白銀の魔導書を抱えた少女が足を止める。
エレノア・フォン・ローゼンヴァルト。細い銀縁眼鏡を指先でわずかに直すと、手元に抱えた膨大な視察書類の束を、トントンと机の角のように完璧に押し揃えた。
「……劣悪な環境ですね。皆さん、体調は崩していませんか?」
鉱夫たちが一斉に這い復す中、エレノアは躊躇なく泥の落ちる石畳に片膝を突いた。
「これ、エレノア。平民に構うな、汚れるぞ」
老神官が眉をひそめるが、エレノアは視線すら向けずに受け流す。
「ローゼンヴァルトの家訓は、弱きを守る盾たるべし、です。彼らの労働あっての視察でしょう」
エレノアはレオンの泥に汚れた手元へふと目をやり、小さく微笑むと、再び歩き出した。
◇
「おい! 第七坑道の奥で、見たこともねえバカでかい魔晶石の塊が見つかったぞ!」
直後、最奥での爆破作業が決行された。全員が遮蔽物の後ろへと退避し、数秒後に鼓膜を破らんばかりの爆発音が響く。凄まじい衝撃波と立ち込める白煙。だが──煙の向こうから現れた光景に、全員が言葉を失った。
崩れ落ちた岩壁の向こう側、未知の古代遺跡『始原回廊』が口を開けていた。
地響きとともに闇から現れたのは、数メートルに及ぶ半透明の結晶体で構成された巨躯。感情のない光る二つの眼球。神代守護機兵──古のゴーレムだった。
<< 侵入者を、検知 >>
「う、うわあああ! 化け物だ!」
逃げ惑う鉱夫たちの前へ、エレノアが前に出た。銀縁眼鏡の奥の瞳を冷徹に細め、白銀の魔導書を開く。
「『大いなる光よ、不浄を排し、我が眼前の敵を穿ち給え』──【聖なる浄化】!」
激しい光撃が頭部へ直撃する。だが、光が収まっても機兵は傷一つなく前進を続けていた。
「……術式を完全に遮断されている……?」
エレノアは焦りを隠すように、抱えた魔導書の表紙を指先でトントン、と二回叩いた。
<< 排除を、継続する >>
振り下ろされる巨腕。エレノアは退くことなく、逃げ遅れた鉱夫たちの前へ立ちふさがった。
「【聖光の結界】!」
眩い光の障壁が突進を受け止める。
足元の石畳がひび割れ、エレノアの口から薄赤い血が漏れた。
「ぐ、ううう……! 皆さんは早く逃げてください!」
<< 障害物の、破壊へ移行 >>
機兵は狙いを変え、結晶の腕を天井へと叩きつけた。
凄まじい轟音とともに崩落する岩盤。エレノアのいる空間と通路の間に、巨大な瓦礫の山が崩れ落ちた。
孤立した空間。パキパキと結界に亀裂が入っていく。
魔力も底を突きかけ、エレノアは自らの終わりを悟り、静かに目を瞑ろうとした。
「エレノアさん! 大丈夫ですか!?」
瓦礫の隙間から、泥まみれの少年が躍り出てきた。
崩落の危険など最初から頭にないような顔で、レオンが駆け寄ってくる。
「な、あなた……!? なぜ戻ってきたのですか!」
エレノアが血を吐きながら叫ぶ。
「早く逃げなさいと言ったでしょう! 巻き添えになって死ぬつもりですか!」
「……俺なんかが来ても、何も変わらないかもしれないけど!」
レオンには、自分の危険を推し量る知恵も、格好のつく理屈もなかった。
ただ、目の前で身体を張って自分たちを逃がしてくれた少女を放っておく選択肢が、最初から存在しなかった。
「助けてくれた人を置いて逃げるなんて、できるわけないだろ!」
レオンが胸ポケットから引き抜いた黒い軸が、
息をのむような白銀の羽ペン──《原典筆》へと変貌していく。
同時に、捲り上がった作業着の袖の下、
左手首の痣が激しく蒼白く発光し、複雑な幾何学の印章となって皮膚の上に浮かび上がった。
エレノアの眼孔が開く。
彼女の卓越した魔力感知が、レオンの手元から溢れ出す「世界の理そのもの」のような異質なエネルギーを捉えていた。
「光……? 平民なのに、あなた、魔法が使えるの……!? 風魔法……? それとも高圧の水魔法!? その特殊な媒体から放つ術式なら、機兵の関節を穿って……っ!」
迫り来る巨躯を見上げたまま、レオンは作業着の袖口を引いた。
左腕の皮膚に刻まれた、あの不気味な一本の文字列がちりと熱を帯びる。
「そんな大層な魔法なら良かったんですけど……俺のはただ申請するだけの、『申請魔法』なんです」
「……申請……魔……法?」
その瞬間、限界を迎えた『聖光の結界』が甲高い音を立てて爆ぜた。
無防備な二人の頭上へ、容赦なく振り下ろされる結晶の拳。
──その刹那。
激しく駆動した機兵の背部が黄金色の光を帯びた。
煤にまみれた装甲の奥から、幾何学模様の緻密な文字列が浮かび上がってくる。
見間違えるはずがなかった。
あの夜、ミレナを救った羊皮紙の枠線と同じ、「世界の法」の記述。
紙に書かれているのではない。
ゴーレムという存在の構造そのものに、直接『刻まれている』。
「……これなら、書き直せる!」
左手首の光る認証印に呼び応じるように、レオンは力強く《原典筆》を握り締めた。




