第12話 初期化
交易都市の喧騒は、容赦なく体力を削っていく。
大通りの喧騒から外れた広場の隅で、アイリスが小さく息を吐いた。
「ねえレオン。あの『徽章』を見せれば、旅商人組合の人たちも何か教えてくれるのかな……」
「ダメだ。俺たちの私用のために使うわけにはいかない」
「そうよね……焦っちゃって。ごめん」
二人の会話を、露店の陰で背を向けていた男の耳が捉えていた。
男の唇の端が歪む。
(銀の徽章だと……? 諮問官のガキか。高く売れそうだ)
男はうやうやしい笑みを張り付け、軽快な足取りで近づいてきた。
「お困りかい、お客さん。捜してるのは……特徴のある歩き方でデカい革トランクを持った、旅商人のバルツだろ?」
鼻をつく安物の香水の匂い。
街中で二人が聞き回っていた情報を繋ぎ合わせただけの言葉。
「これも何かの縁だ。俺の隠れ家にバルツが残していった情報がある。案内するよ」
促す手つきに、強張っていた二人の肩がわずかに緩む。
案内された先は、湿ったカビの匂いが漂う薄暗い路地裏だった。
◇
「……あの、ここ行き止まりじゃ……」
アイリスが脚を止めた時には遅かった。
前後の暗がりから、刃物を持った男たちが現れ、二人を完全に退路を絶つ。案内した男がナイフを弄びながら前に出た。
「金と『徽章』を置いていきな」
「昨日みたいにお嬢ちゃんに妙な魔法を使わせるな! やれ!」
男たちの襲撃に、二人は組み伏せられた。
アイリスの筒とレオンの鞄が強引に奪い取られる。
男が鞄から銀の徽章を掲げ、下卑た笑いを浮かべた。
「本物じゃねぇか! 裏市に流せば大金だ!」
その瞬間──路地裏の空間全体が泥水へ変わったかのような、凄まじい重圧が立ち込めた。
「……くっ、身体が……急に……っ!?」
「あ、足に力が入らない……っ!」
鉛のような重圧が二人の身体にのしかかり、思わず膝をつきそうになる。
「──そこまでにしてもらおうか」
地響きのような怒号が轟いた。
◇
振り返れば、あのフードの巨漢が立っていた。
背後には影のように控える老執事。
巨漢の呼びかけと同時に、老執事の身体が地を這うように沈み込んだ。
「がはっ!?」
最小限の打撃。
老執事は一瞬で取り巻きを叩きのめし、鞄と筒を奪い返す。
「よくやった、ヴァルド! 残りは俺が──」
大男が踏み込む。
しかしその拳は、目に見えない枷に繋がれたように速度を失っていく。
「……ちっ、忌々しい呪いめ……!」
刃物が大男の肉体を浅く切り裂いていく。
重圧に抗いながら強靭な肉体だけで刃物を叩き折り、男たちを伏せていく大男。
だが、路地の奥から不吉な足音が重なって響いた。
「おいおいバロウ、無様にやられてるじゃねぇか」
現れたのは、鉄大槌を担いだ凶悪な目つきの巨漢──ドルガ。
バロウと呼ばれた男が悲鳴のように叫ぶ。
「ド、ドルガの旦那! こいつら徽章を持っていやがる! 助けてくれ!」
「へぇ、バロウ。持ってる金を全部出せ。そしたらまとめて叩き潰してやる」
金袋がドルガへ渡り、重い一撃が大気を震わせた。
「ヴァルド、手出しは無用だ」
「……御意に、レイガ様」
満身創痍の大男──レイガが前に出る。
ドルガの拳が、レイガの腹部へ容赦なく突き刺さった。
鈍い肉削音。
しかし、レイガは倒れない。血を吐きながらも、その場に踏みとどまり、鋭い眼光を逸らさなかった。
「……へぇ、まだ立つか!」
追撃の拳が何度も叩き込まれ、レイガの膝が激しく震える。
それでも絶対に膝をつかない。背後のレオンたちを遮る壁として立ち続けていた。
「レイガ様! 私が代わります!」
「……俺が下がれば、次は誰が守る。理不尽に怯える民を置いて、背を向けるわけにはいかない……!」
その瞬間、レオンの視界が激しく弾けた。
限界を超えた魔力に反応し、網膜に鮮烈な文字盤が展開される。
【イザナ家固有書式】
主要効果:レイガ・イザナの能力上昇
補助効果:味方全体の能力上昇
<<異常処理>>
反転処理(対象:自己・味方/効果変更:能力低下)
【──初期化申請可能──】
※対象者の同意が必要です
電撃のような衝撃がレオンの脳裏を走る。
(……異常処理……反転処理……? レイガさん、あなたは……)
◇
レオンは息を呑んだ。
(……反転処理……本来の能力が逆に働いている……?)
「死ねや、デカブツーーっ!」
ドルガが容赦のない鉄大槌を振り上げ、満身創痍のレイガへと振り下ろそうとした。
レオンは恐怖を抑え込み胸元から『原典筆』を引き抜くと、
レイガの背中に向かって叫んだ。
「レイガさん! あなたにかけられているのは、呪いじゃない!」
「……なぜ……呪いの事を……!?」
大槌を構えるドルガの視線の先で、レイガが驚愕に目を見開く。
レオンは叫び続けた。
「俺ならそれを正常な状態へ戻せる! 俺を信じて『あなたの同意』を……許可をしてくれ!!」
突拍子もないレオンの言葉。
だが、死線を幾度も越えてきたレイガの直感が、目の前の少年が真実を告げていると叫んでいた。
レイガは、迫り来る鉄大槌を睨み据えたまま、迷いなく吼えた。
「──許す! お前の力を、俺に示してみせろ!」
【対象者の同意を確認:初期化申請を実行します】
システムメッセージが脳内に響くと同時に、レオンは宙に展開された文字盤の【初期化申請可能】の項目へと、『原典筆』の先を鋭く突き立てた。
(書式に書き込まれた異常な処理を──本来の正規の仕様へ『初期化申請』する……!!)
視界に【修正申請:承認】の黄金文字が躍ると同時に、ガキン、と世界の理が正しい形にはまる硬質な音が路地裏に鳴り響いた。
その瞬間、レイガの肩を覆っていた不気味な黒い澱みが一瞬にして霧散し、本来の気高き白銀の輝きを取り戻した。
「──こ、これはっ……!?」
振り下ろされる鉄大槌の直前で、レイガの目がカッと見開かれた。
空間を支配していた泥のような重圧が消え去り、それどころか、レイガの全身から凄まじい純白の魔力が爆発的に吹き荒れた。
「ド、ドルガの旦那! 逃げ──」
背後で状況の異変を察知したバロウが悲鳴を上げるが、もう遅かった。
「……我が肉体を縛りし枷が、消えたか」
レイガは自身の漲る力を確信すると、眼前に迫る巨大な鉄大槌を、なんと左手の掌だけで正面からガシィィンと受け止めた。
「なっ……!?」
ドルガの顔が恐怖に引きつる。
「不届き者が。我が前を遮るな」
レイガが右拳を軽く突き出した。
ただそれだけの動作で、大気を巻き裂くほどの衝撃波が発生し、ドルガの巨躯は鉄大槌ごと遥か後方の壁へと叩きつけられ、一撃で意識を失って崩れ落ちた。
「ひ、ひぃぃぃっ! 化け物だぁ!」
バロウは腰を抜かしながら、路地の奥へと這いつくばって逃げ去っていった。
一瞬にして静寂が戻った路地裏で、レイガは自身の拳をしっかりと握り締め、荒い息を吐きながらも真っ直ぐに背筋を伸ばした。力が戻ったからではない。
その眼眸には、何があっても倒れないという「不屈の意志」が宿っていた。
ゆっくりと振り返ったレイガの鋭い視線が、原典筆を握ったまま息を荒くしているレオンへと真っ直ぐに向けられる。
「……お前、レオンと言ったか。今、何をした?」
そのあまりの威風にレオンが言葉を詰まらせた瞬間。
カラン、と背後で冷たい音が鳴った。
「……あり得ぬ。殿下にかけられた呪いを、こんなにもあっさりと……!」
ヴァルドが、初めてその鉄の仮面のような表情を崩し、驚愕に目を見開いている。
老執事の口から漏れた、その決定的な言葉。
「殿下……皇国……まさか、イザナって!?」
レオンとアイリスの顔に、凄みのある衝撃が走る。
ただの不器用な旅人だと思っていたその大男の正体は、世界の均衡を揺るがす大国──皇国イザナの第一王子、レイガ・イザナその人であった。




