第10話 境界へ向かう馬車
ガタゴトと車輪が軋む音が、どこか遠くの方で鳴っている。
王都の中央神殿にミレナを預け、エレノアから特任諮問官の銀の徽章を託されたレオンは、アイリスと共にロザリア地方行きの大型乗合馬車に揺られていた。
馬車の座席は満席に近かった。
品定めの目つきをした旅商人、手柄を夢見て大声で笑う若い三人組の冒険者パーティー、寄り添い合う老夫婦に、熱心に聖典をめくる若い神官。
そして一番奥の席に、妙に浮いた空気を纏う二人の男がいた。
一人は、フードを深く被り、座席を二人分占領せんばかりの筋骨隆々とした大男。終始腕を組んだまま、地響きのような寝息を立てている。その隣には、背筋を真っ直ぐに伸ばした執事風の老人が座り、微動だにせず古びた本を読んでいた。
「アイリス。ロザリアって、具体的にどんな場所なんだ?」
アイリスは窓の外を見つめながら、車輪の振動に合わせて静かに語り始めた。
「あそこはね、小さな国が十数個もひしめき合っている地方なの。三つの大国のちょうど緩衝地帯になっていて、貿易がすごく盛んだから商人は集まるんだけど……その分、国同士の勢力争いが絶えないの。だから、腕売りの傭兵や冒険者もたくさんいて」
アイリスが説明を続けるうち、馬車が王国の国境関所を抜けたのか、窓外の景色が目まぐるしく変化していった。
なだらかな平原は険しい山岳地帯へと姿を変え、斜面には幾重にも重なる段々畑が広がる。
やがて乾燥した赤茶けた岩肌が目立つようになり、建物もどこか泥臭く、異国風の尖った屋根が並ぶ街並みへと移り変わっていく。
「ここから先が、ロザリア地方。……昔は、もっと平和だったんだけどね」
少し寂しそうに視線を落としたアイリスの呟きには、故郷へ戻ってきたという懐かしさと、同時に張り詰めた緊張感が混じっていた。
突如、馬車が大きく減速した。
御者台の小窓が開き、馭者が中へ向かって鋭い声を張り上げる。
「おい、乗客の旦那方! この先は山賊がよく出る危険地帯だ。戦える奴は武器の準備をしておきな!」
車内の商人が短い悲鳴を上げ、老夫婦が身を寄せ合う。
一方で、若い冒険者たちは「俺たちの出番だな」とニヤつきながら剣の柄に手をかけた。
案の定、馬車が完全に停止すると同時に怒号が放たれた。
「止まれぇ! 荷物を置いて失せな!」
怒号とともに、岩陰から二十人以上の武装した山賊たちが躍り出てくる。
「よし、行くぞ!」
息巻いた若い冒険者たちが馬車から飛び出し、山賊たちを迎え撃った。
最初は数の暴力を剣技でいなし、優勢に見えた。しかし、数合も交わさないうちに、彼らの動きに劇的な異変が起きる。
「な、なんだ……身体が、重い……っ!」
変調を訴えたのは、最前線の冒険者だけではなかった。
悲鳴を上げて馬車から荷物を降ろし、逃げようとした旅商人が、自分の荷箱を呆気なく取り落とす。
「くそ……腕に力が入らねぇ。荷物が持ち上がらないぞ!?」
御者台の馭者も、馬の手綱を握ったまま苦悶の表情で顔をしかめた。
「今日はやけに身体が鈍い……いつも通りの動きが、できねえ……!」
まるで空間そのものが泥水に変わってしまったかのように、防衛側全員の動きが目に見えて鈍り始める。
彼らの剣や手足が空を切り、まともに動けている山賊のナタに圧倒されていく。
「がはっ!」
冒険者の一人が殴り飛ばされ、防衛線が崩壊した。
勝ち誇った山賊たちが一斉に馬車へと群がってくる。車内に商人の悲鳴が響き渡る。
「外は平坦な街道……利用できそうな地形が何もない!」
アイリスが焦燥の声を上げる。
彼女の魔法で利用できそうな障害物は、周囲には存在しなかった。
「ひぃっ、来るな!」
山賊の一人がニヤつきながら馬車の扉をこじ開け、中へ侵入しようとした。
その瞬間、奥の座席で眠っていたはずのフードの大男が、ゆっくりと立ち上がった。その巨躯が車内の天井をかすめる。
大男は邪魔だとばかりに、片手で山賊の顔面を掴むと、そのまま外の地面へと豪快に吹き飛ばした。
「……ったく、旅先でも面倒ばっかりだ」
フードの奥から漏れた低い声。
大男は馬車の外へと踏み出し、群がる山賊たちを次々と素手で殴り飛ばしていった。だが、その拳が三体目を捉えたあたりで、大男自身の動きにも明確な違和感が生じる。
「……ちっ、またか!」
大男が不快そうに己の腕を睨んだ。
「なぜこれしきの雑魚相手に……」
見た目通りなら一瞬で壊滅できるはずの相手。
だが、目に見えて大男の腕の振りが遅くなり、山賊たちの刃を紙一重で受ける場面が増えていく。
(大男だけじゃない。冒険者も御者も商人も鈍っている。なのに山賊だけは普段通りに動いている……?)
車内から観察していたレオンが確信を得た直後、山賊の一人が放った鋭い一撃が大男の側頭部をかすめた。本来なら容易に避けられたはずの攻撃。回避が遅れた大男は、ナタの刃で右肩の衣服を浅く切り裂かれた。
びりり、と激しい動きによって右袖が大きく裂け、露出したその肩には白銀に輝く精緻な紋様のようなものが見えた。
その瞬間、レオンの網膜が激しく反応した。
誰もいない虚空に、今までに見たこともないほどの激しい輝きを放つ黄金の文字が、一瞬だけ鋭く明滅した。
だが、眩い光に視界を焼かれ、その詳細な内容までは読み取ることができない。
レオンが驚愕する間にも、大男の動きはさらに鈍っていく。
その様子を車内から見ていた執事の老人が、静かにため息を漏らして本を閉じた。
「お下がりください。これ以上は無用な傷を増やすだけです」
老人は滑らかな動作で外へ出た。
杖も剣も持たず、丸腰のまま山賊の群れへと歩み寄る。
そして、無駄のない最小限のステップと、手のひらで受け流すような打撃だけで、襲いかかる山賊たちを次々と無力化していった。身体の重さに影響されている様子は微塵もない。その洗練された動きは、強すぎるという領域を超えて、恐ろしささえ感じさせた。
「ひ、ひぃっ! 化け物め、退け、退けぇ!」
頭領らしき男が悲鳴を上げ、山賊たちは幾人もの仲間を置き去りにしたまま、立ち去っていった。
老執事は大男に歩み寄ると、手際よく予備の布で裂けた袖を覆い、その白銀の紋様を完全に隠してしまった。
レオンは息を詰め、窓越しにその大男の右肩を、信じられないものを見るかのように見つめ続けていた。
あの男は何者なのか。
そして、あの神聖な紋様に重なるようにして、自分の目を眩ませたあの黄金の文字列は──。
誰もが沈黙を守る中、馬車は何事もなかったかのように、
さらなる謎を孕んだロザリアの奥地へと進んでいく。




