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6.クロックアップ(1)

 鳥に導かれ、灰色の道をどれだけ歩いただろうか。見慣れた街並みが見えてきたとき、私の足は自然と速まっていた。


 図書館の重い扉を、私は両手で押し開けた。しん、と静まり返ったホール。高い天井に吊るされた照明が落とす光の円。広間を抜け、奥に進むに連れて、古い紙とインクの匂いが強まっていく。


 彼女は一人、閲覧室のテーブルで、便箋を熱心に読んでいた。その横顔に、きらりと光るものが見えた気がした。

 私がいることに気づき、彼女は顔を上げた。一瞬、ためらうように固まった後、慌ててその便箋を折りたたむと、ロングスカートのポケットにしまった。

「メグ……」

「アッシュ!」

 私たちは駆け寄り、抱きしめ合った。アッシュの温もりを感じた瞬間、私の周りの世界に色が戻ってきた。灰色の書架が木の色を取り戻し、窓から差し込む光が床を金色に染めていく。

「よかった……本当に……」アッシュが声を詰まらせた。「もう、会えないかと思った」

「私もだよ」私はアッシュの肩に顔を埋めて言った。「アッシュがいてくれて、良かった。本当に」

 私はアッシュの手を取った。「座ろうよ。積もる話が山ほど——」

 その手を、アッシュが強く握り返した。顔を覗き込むと、彼女の表情が変わっていた。この目の色、前にも見たことがある。

「メグ」

 低く、抑えた声だった。

「お願い。何も聞かないで、来て」

 アッシュは私の手首を掴むと、閲覧室の出口に向かって歩き始めた。

「え、ちょっと、アッシュ?」

「わけはあとで話すから」

 ロングスカートの裾をひるがえして、ほとんど走るような早足。私の手首を握る指が、小刻みに震えていた。

「待って、せっかく会えたのに——」

「いいから!」

 その声が、鞭のように廊下に響いた。何かがおかしい。アッシュは怖がっている。森の荒くれ者に囲まれた時も、狩人に追われた時も、ここまでの必死さはなかった。


 私は口をつぐんで、引っ張られるままに走った。

 廊下を曲がる。もう一つ曲がる。出口はすぐそこのはずなのに、曲がった先には、また同じ長さの廊下が続いていた。天井の照明がちらつき、書架の影が足元をすべるように伸びていく。

「……おかしい」アッシュの足が止まった。

「この廊下、さっきも通らなかった?」私が聞いても答えはなかった。

 アッシュは壁に並ぶ書架の背表紙をじっと見つめていた。その横顔から、最後の色が抜け落ちていくのが見えた。彼女はもう一度、出口の方向へ足を踏み出した。

 廊下の先が、ふいに開けた。

 大きな窓から差し込む西日。整然と並ぶテーブル。出口へ向かって歩いていたはずなのに、私たちの足は、さっきの閲覧室に戻されていた。

 中央の大きなテーブルに、立て札が乗っている。


『クロックキーパー様 ご予約席』


 いつのまにか一人の老婆が向かいに腰かけていた。足元では三匹の猫が家来のように控えている。

アッシュの手が、私の手首からするりと落ちた。彼女は動かなかった。唇が微かに動いたが、声にはならなかった。細い肩が、がくりと落ちる。

「……ごめん、メグ」

 聞こえるか聞こえないかの声だった。


 老婆はゆっくりとこちらを向いて「おぬしらがここに来るのを、待っておったよ」と言った。

「待ち続けたよ!」と黒猫。

「待つのは嫌い」三毛猫。

「もう待たないよ」白猫。

 誰、このおばさん……それより、その三匹の真ん中にいるヤツに見覚えがあった。

「あーっ!」私は思わず叫んだ。「あいつ! 私のナンバーを盗んだ猫!」

 そいつは私を完全に無視して、前足をぺろぺろと舐めている。


 突然、猫たちが、前足から顔を上げて、一斉に同じ方向を見た。図書館の荘厳な静寂が、氷の刃で切り裂かれた。冷たい空気が流れ込み、窓ガラスが音もなく粉々に砕け散った。立っていたのはあの狩人だった。

「やっとみつけたぜ」

 書架の影からぬっと現れると、無感情な瞳でまっすぐ私を捉える。

「またあんたか! しつこいよ!」私は思わず叫んだ。

 アッシュが私を庇うように前に立った。

「いい? もういちど砂の瓶を割る。これしか方法はない」アッシュは横目で私に囁いた。

「でも……そしたらまた宇宙が割れて……どこかへ飛ばされてしまう……せっかくまた会えたのに……」

 私が迷った隙を狩人は見逃さなかった。両手を腰に伸ばしたかと思うと、左右の銃を同時に引き抜いた。私にはその動作がスローモーションのように見えた。すばやく引き抜かれた銃口が私に狙いを定め、アッシュが何かを叫びながら私に飛びついてきた。私とアッシュは二人で抱き合いながら床に転がり落ちた。狩人の指が引き金の先で、ピクリと動いた瞬間——


 老婆の足元にいた黒猫が、退屈そうに一つあくびをして、狩人の方へ視線を向けた。カッ、という音さえしなかった。狩人の姿が、何重かにブレたかと思うと、次の瞬間にはただの空間の歪みになり、ザザザというノイズとなって空気中に溶けた。最初からそんな者など存在しなかったかのように。

 後に残ったのは、舞い落ちる羽根のような光の粒だけ。私は悲鳴を上げることも忘れ、その光景に立ちすくんだ。

 ……消えた?

「フン」と、クロックキーパーは鼻を鳴らした。「数なき者を追い回すだけの、低劣な輩め。大事な儀式の邪魔をしおって」

 あまりにも当たり前のような態度に、私は床の上ですっかり混乱していた。

「どういうこと……?」

「まぁ、ここへ、お座りなさい」老婆はテーブルの向こう側の席を指さした。「アッシュ、おまえさんもじゃ。わしはおまえさんたちに危害を加えるつもりはない。ただ、ゆっくりと話がしたい。図書館というのは、静かに話をするところじゃろう。違うかな」

 アッシュが私の手をとって立ち上がらせてくれた。その間もアッシュはずっと老婆を睨んでいた。私はアッシュと老婆を交互に見ながら、服についた埃を払い、椅子をひいた。深い緑色のフェルトに綺麗な刺繍が施されている、とても座り心地の良い椅子だった。


「さっきは怖い思いさせてすまなかった」老婆は言った。「まさか狩人がああまでしつこくおまえさんを付け狙うとは、さすがのわしも読めなかった」

「おかげでだいぶ怖い思いをしましたけど」アッシュは強い言葉で応じた。「塔の住人や土の星の門番は、大丈夫なんでしょうね?」

「心配ご無用」老婆は言った。「あれの狙いはそこにいる少女じゃ。他のものを消してまわる理由など、ひとつもない」

「あのお……」今しかないと思い、私は言った。「どうして私なんですか」ずっとずっと、聞きたかったことだ。

「おぬしのナンバーを、少しの間、預かる必要があったのじゃ」老婆が答える。

「預かる……?」その言葉が信じられなかった。「私、何度も死にそうになったんですよ? 高見さんや門番さんも……! それが、ただ欲しかっただけだっていうの!?」

「そこのお嬢ちゃんなら、答えを知っておるじゃろう」

 老婆は、私ではなく、隣のアッシュに視線を送った。


 老婆の言葉の意味が分からず、私は答えを求めてアッシュを見た。でも彼女は私の視線を受け止めようとしなかった。顔から血の気が失せ、唇を固く結んだまま、俯いて小刻みに震えている。その姿は、まるで罪人のようだった。

「アッシュ……?」

 私の声に、彼女の肩がびくりと跳ねた。それでも、彼女は顔を上げない。私は老婆に食い下がった。

「どういうこと? アッシュがぜんぶ知ってる!?」

「その通りじゃ」老婆は満足そうに頷いた。「おぬしのナンバーは、無数に存在する宇宙を貫き、宇宙全体を繋ぎ止めておる特別な『錨』<アンカー>。じゃが、その錨がちと強力すぎてな。古くなった世界を新しくするのに、邪魔になっておったのよ」

「邪魔……?」私の頭は、まだ追いつかなかった。「私が、邪魔……だから、あの猫に……?」

「そうじゃ。老朽化した宇宙を刷新するクロックアップの儀式の前に、一度その錨をおぬしから切り離す必要があった。それで、こやつに盗ませたというわけじゃ」


 クロックアップ。アンカー。邪魔だから、ナンバーを盗んだ。

 バラバラだった言葉が、頭の中で一つの意味に繋がった。隣で震える親友の沈黙が、その残酷な真実を肯定していた。

「ばっかじゃないの!」

  びっくりするくらい大きな声が出た。

「どんだけ与太話してんのよ! 私は真剣に怒ってるんですからね! 世界のため? 宇宙のため? そんなもののために、何も知らないうちにわけの分からない話に巻き込まれて! 私たちのことなんて、どうでもよかったっていうの!? どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないのよ! 私のパパは、どこ! ママを返してよ!」

 私はいつのまにか泣いていた。溜まっていた感情が一斉に吹き出して、足に力が入らない。老婆は、憐れみとも慈しみともつかない目で私を見おろしていた。

「ここまで来るだけでも、たいへんな苦労じゃったろう」

 息がうまく吸えない。私は隣にいるはずの親友の姿を探した。

「助けて、アッシュ……」

 そう言おうとして、私の口から出たのは、別の名前だった。

「助けて、エミリア」


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