6.クロックアップ(2)
——アッシュの表情が、悲しみと安堵の入り混じった、複雑な色に変わった。彼女はゆっくりと私の前にひざまずくと、その瞳をまっすぐに私に向けた。
「ええ、そう。私が、エミリア・クワントウェル」
彼女は床に崩れ落ちた私を、優しく抱きしめてくれた。
「ごめんね、メグ。ずっと黙っていて。あなたをここまで導くのが、私の役割だった。私はビホルダー。『見る者』」
廊下での彼女の様子が脳裏をよぎった。切迫した声。冷たい指。真っ青な顔色。
とにかく何か言わなくちゃと思って言葉を絞りだした。
「……アッシュ」
それ以上が、続かなかった。アッシュは静かに腕をほどいた。二人で床に座り込んだまま、しばらく黙っていた。
老婆は何も言わず、猫たちの頭を撫でている。
「メグ」アッシュが先に口を開いた。「聞きたいことがたくさんあるでしょう。何でも答える。もう隠し事はしない」
「うん」私は頷いた。「でも、もう、いい」
「……どうして?」
「だって逃がそうとしてくれたじゃない」
アッシュが唇を噛んだ。
老婆が何かを言いかけた。
「おばさんはちょっと黙ってて」私はぴしゃりと言った。老婆は目を丸くし、それからくつくつと笑った。
私はアッシュに向き直った。
「ねえ。教えて。ナンバーとかアンカーとかの話じゃなくて。あなたは最初からぜんぶ知ってたのに、どうしてあんなに一生懸命、私を助けて、ずっと一緒にいてくれたの。任務なら、もっと要領よくやれたはずでしょ」
アッシュは長い間、何も言わなかった。ロングスカートの裾をぎゅっと握りしめている。
「……最初は確かに任務だった。でも途中から、任務じゃ、なくなった」
「じゃあ、何」
「あなたを見ていたかったの」アッシュの声が震えた。
「あなたに会って——分からなくなった。どうしてこの子は、あんなに怖い目に遭ってるのに笑えるんだろうって。門番に向かって『友達になろう』って、あの瞬間、私、呆れたんじゃない、心から羨ましかった。誰にでも優しくて、誰とでも仲良くなれて、何でも素直に言えて。あなたのそばにいたかった。悪いことが起こる予感はあったのに、ずっと見ていたという気持ちを、止められなかった」
私は黙って聞いていた。
「……けっきょく私の、ただのわがまま。私のわがままで、あなたをここまで連れて来てしまった」
アッシュが床に手をついた。前髪の隙間から、涙がぽたぽたと落ちた。
「ねえ、アッシュ。聞いて」私は言った。「私、ここまで来る途中、すごく楽しかったよ」
アッシュが顔を上げた。
「本当なら何も知らないまま宇宙が入れ替わるはずだった。アッシュがそばにいてくれたから、私は宇宙の本当の姿を見れた。自分の未来を確かだと思えるようになった。アイスクリームだって好きなだけ食べた。それなのに、どうして恨んだりするの」
「やめて」アッシュが悲鳴を上げた。「お願い、怒って。そのほうがずっと——」
「おばさんも悪くないよ。おばさんはこうして待ってくれていたわけでしょ。ほんとうなら何も言わずに宇宙を新しくすることだってできたのにね」
「おばさんて」老婆が聞きとがめたが、私は無視した。
「恨む理由なんて、どこにもないじゃない」
アッシュの唇がわなわなと震えた。「メグ、お願い、普通の女の子に戻って」
「え?」
「ナンバーを手放して、ぜんぶ忘れて。また毎朝『はじめまして』を繰り返すなんて、そんなの——」
アッシュは私の肩を掴んだ。
「そんなの、見ていられない」
いつだって冷静で、賢くて、私の三歩先を考えていたアッシュ。私は何も言えずに、泣きじゃくるアッシュの肩に手を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「アッシュは、優しいね」
アッシュの身体が、びくりと硬直した。何秒か——もしかしたら何分か——彼女は石のように固まっていた。それからすとんと身体が柔らかくなった。
「……ずるいよ、メグ」
かすれた声が震えていた。
「何も、言い返せないじゃない……」
アッシュの腕がおずおずと私の背中に回ってきた。最初はそっと、それからだんだん力が入って、最後には息が苦しくなるくらい、きつく。
私は、ぽんぽんとアッシュの背中を叩いた。さっきまで泣いていたのは私のほうだったのに、いつの間にか立場が逆転している。
「泣いていいよ」
「とっくに泣いてるわよ、見れば分かるでしょ……」
「うん。知ってる」
私たちは図書館の床にぺたんと座り込んで、鼻をすすりながら笑った。きっとものすごく間抜けな光景だったと思う。
「あのね、アッシュ。私がみたもの、触れたもの、ぜんぶ手紙に書いて送るから。味も匂いも手触りも、ぜんぶ」
「……あなたの手紙、誤字がひどいのよ」
「細かいなあ」
「そろそろ飽和の時が来ておる。仕事をせねばならん」
老婆が、分厚い専門書を閉じながら言った。
「その前に、おぬしらに見せておかねばならんものがある。なぜ、わしがこれほど急ぐのか、その理由をな」
老婆がすっと指を上げると、図書館の景色が陽炎のように揺らめき、消えた。私たちは、星々の海に浮かんでいた。目の前には信じられないほど巨大な天秤が、ゆっくりと揺れている。金属や石でできているのではない。銀河そのものを溶かして鋳造したかのような、星屑の腕と、星雲の皿を持っていた。
片方の皿には、数え切れないほどの、金色に鈍く輝く小さな玉が乗せられていた。ゴブチンが歌っていた「魂玉」だ。一つ一つが、誰かの人生の重みを持っている。その重みが集まり、宇宙の秩序という奇跡的な均衡を保っていた。
「美しいじゃろう」と老婆は言った。「じゃが、この均衡は、もう限界じゃ」
老婆がそう言った瞬間、どこからともなくまた一つ、新しい魂玉が生まれ、光の尾を引きながら皿の上へと転がり込んだ。
ゴトン、という重い響きが宇宙全体に広がり、天秤が大きくぐらりと傾いた。皿からいくつかの魂玉がこぼれ落ちそうになり、悲鳴のようなきしみ音が響き渡る。天秤は必死にバランスを取り戻そうと震え、やがてかろうじて静止したが、その針はもはや真ん中を指してはいなかった。
「人の一つ一つの死が、この天秤を揺るがす。あらゆる死には意味がある。じゃが、もはやこの宇宙は、その重みに耐えきれん。次の一つで、すべてが崩壊するやもしれん」
「何するつもり?」私は声にならない声で叫んだ。
「クロックアップに決まっておるがな」老婆は言う。「世界に諦めが蔓延し、得体の知れない息苦しさに満たされたとき。撒いた種の成長を、明日見ようとしなくなったとき。そういうとき、世界は自らのアップデートを望む」
アッシュが、私の手をぎゅっと握った。
クロックキーパーが、ぱちんと指を鳴らした。
世界の何もかもが、生まれ変わり始めた。私たちの足元が激しく揺れ、図書館そのものが悲鳴を上げた。天井まで届く巨大な書架が、ありえない角度にぐにゃりと歪み次々と倒れていく。
何万、何億という本が棚から弾け飛び、宙を舞う。あらゆる時代の、あらゆる知識が詰まったページが引きちぎられ、文字や数式が紙から剥がれて、私たちの周りを巨大な竜巻のように渦巻いた。飛ばされそうになる私の身体を、アッシュが必死で支えてくれている。
「見たいの!」私は力を振り絞って叫んだ。「クロックアップした後の世界を! 何かが変わった後の明日の朝日を! この世界の続きを! たとえそれが、バッドエンドに終わるとしても!」
「そのためには」と、老婆は私の言葉を遮った。「そなたはまた再び、宇宙を旅するアンカーにならねばならん。その孤独を、また引き受けるということじゃ。それは過酷な道じゃ」
老婆は私の目を覗き込んだ。
「そなたは自分の存在をかけてここまでやってきた。その小さい身体で、みあげたものじゃ。だから今回だけは、そなたに選択肢をやろう。このままナンバーを手放し、別人となり、普通の少女に戻るか。それとも、再びアンカーとして、孤独な朝を繰り返すか」
老婆の言葉は甘く、魅力的だった。
「生まれ変わることは、救いじゃ。そなたのパパやママが偽物に見える苦しみも、アッシュと別れる悲しみも、きれいさっぱり消える。寂しい『はじめまして』の朝なんぞ、もう二度と来やしない。お前は両親に愛される、ひとりの無垢な中学生になる……それが一番の幸せだろう?」
染みた。
「はじめまして」の一言が、忘れかけていた痛みを呼び覚ます。
さっき「普通の女の子に戻って」と泣いて私に頼んだアッシュ。あの子の願いも、老婆の提案も、同じことを言っている。
アッシュは私を見なかった。唇をきつく結んで、まっすぐ前だけを見ている。何も言わないでいてくれている。
——ありがとう、アッシュ。
私は立ち上がった。
別人になれば「はじめまして」の朝は終わる。でもそうしたら、この旅で出会ったすべてが消える。団子っ鼻の店主。優しいノッポの高見さん。生意気な門番。私の大切な未来。そして泣きながら私を抱きしめてくれた、この子のことも。彼らと出会えたこの旅を、なかったことになんて、しない。
私は顔を上げた。涙はもう流れていなかった。まっすぐに老婆を見据えた。震える足に力を込める。
これは戦いだ。私の人生に、世界に、全宇宙に「YES」と言うための、私自身との戦いだ。
「私は、アンカーを引き受けます」
アッシュが息を呑む音が聞こえた。
「あの未来へ行くために。それと——」
私はアッシュのほうを振り返った。
「手紙、待ってるから」
アッシュの唇が震え、それから、私を見て花が咲くみたいに笑った。
「お願いします、クロックキーパー」アッシュが言った。「一度だけでいい。メグの願いを、聞いてあげてください」
「よろしい」老婆が頷いた。風がいっそう激しく吹き始める。
「メグ」アッシュが私の耳元で囁いた。「ありがとう。また、いつかどこかで」
カチン、と音がした。いま、宇宙は再び私のシリアルナンバーをロックした。崩壊していく世界の中で、一筋の光が、私を貫いてどこまでも伸びていくのが見えた。この光を辿れば、アッシュはきっと、また私を見つけてくれるだろう。
遠くに、新しい宇宙の群れが見える。目を凝らすと、宇宙は静かに円を描いていた。私の中に、新しい言葉が生まれてくる。
三匹の猫たちが、不敵な笑みを浮かべて、過去と現在と未来の歪みの中へと消えていった。
「最後に聞いて」アッシュが囁いた。「私はあなたのことが大好き。手紙、かならず送る」
その瞬間、私もアッシュも、そして古い世界も、竜巻の中に溶けて消えた。




