5.喪失の街(2)
お腹空いた。
最後に何か食べたの、いつだっけ。地下の食品売り場へ行くと、夢のような光景があった。あらゆる食べ物が手付かずのまま残されている。私は夢中で、大好きなカフェオレと、ソーセージエッグマフィンと、ポテトチップスを買い物カゴに入れた。
どこで夜を明かそうかと考える。モールの中をさまよい、私は三階の家具売り場にたどり着いた。そこで、ふかふかのベッドたちが私を待ってくれていた。木の匂いがする一番大きいベッドがひと目で好きになった。シーツの感触を確かめ、枕に頭をうずめる。ああ、なんて気持ちいいんだろう。手に入れた戦利品をベッドの上に広げ、私は色のない世界で、ささやかな晩御飯を楽しんだ。カフェオレは甘く、マフィンは少ししょっぱかった。
案内板をみると最上階に「サウナ&スパ」があった。もしかして温泉があるのかと思って、わくわくしながら6Fボタンを押した。エレベーターが開くと、ムンという熱気がいっせいに流れこんできた。受付け脇の棚に積まれている大きなタオルを一つ取ると私は温泉マークの先に向かった。ますます湿っぽくなる空気をかき分けて曇ったガラスを開けると目の前に大浴場が待ち構えていた。私は服を脱ぎ捨ててじゃぼんと頭から飛び込んだ。
お風呂なんて何日ぶり。門番さんの星ではアッシュを助けるために沼に飛び込んだ。今の今まで気にならなかったけど、ママがいたら絶対にメグちゃんくさーいって鼻をつまんでお風呂に入らされたに違いない。お湯加減がちょうどよくって、身体中があっというまにポカポカして、このまま寝てしまいたいくらい。この前なんか本当にお風呂で寝ちゃったらしく、心配して見にきたママに発見されたときには、顔じゅう皺だらけだった。
そういえばパパは少し前から「パパは最後に入るから、メグミ、先に入りなさい」といって一緒に入ってくれなくなった。いつも遠慮している感じで、なんでそんなによそよそしい顔するのか不思議。耳の先まですっかり温まって、ざぶんと湯舟からあがった。私のお風呂はカラスより短いのだ。
吹き抜けの通路で電動キックボードに乗って遊ぶ。「オーーーーーイ」と声を出して駆け抜ける。ショッピングモールに私の声が響く。一人なのにオーイなんて叫んでいる自分がおかしい。でもこういうとき何て言えばいいのかなんて、誰も知らない。私は心の思いつくまま、楽しさを目いっぱい詰め込んで声を張り上げる。
どれだけ大声出したって怒られたりしない。私は右足を二回、三回と蹴ってキックボードを加速した。フロアの景色が一気に溶けて車輪の音が勢いよく後ろに流れていった。アクセル全開。観葉植物の植木を通過したと同時に外に体重をかけてボードを横にスライドさせる。重さの乗せ方を工夫すると車輪がなめらかに横滑りして曲がり切れる。スピードを出しすぎたのか、すぐにバッテリーが切れてしまった。
アイスクリーム食べようと一階まで下りた。ショーケースの向こうに、味がずらり並んでいる。扉を抜けてカウンターに入る。お目当ては店員さんが使う、カップの付いた金属のハサミ。いちどあのハサミでアイスクリームを好きなだけよそってみたかった。持つと思ったより大きくて、しっかり握るのが難しい。しかたないので、ちょっとイメージが違うなぁと思いつつ、カップの部分を握って掬い取った。大好きなチョコチップバナナとモカコーヒーをコーンにダブルで。初めてにしてはいい感じのダブル。スプーンをひとつ拝借すると私はお店を出て、広場の窓際の席に座る。
ここのアイスクリームを食べ尽くすのは時間がかかるだろうなぁと思った。アイスだけじゃない。フードコート。それらを食べ終えて、食料がなくなったら、隣のビルへ移動すればいい。それなら、当面の間。もしかしたら、この先ずっと。食べ物の心配はないんだ……私は思った。そう考えて、わからなくなった。安心していいのやら。絶望しなくてはいけないのやら。
お風呂に入った。キックボードで遊んだ。ダブルアイスも食べた。私は、寝具売り場に戻ることにした。そろそろ、考える時間。
ふかふかベッドに戻ると、私の心にぽっかりと穴が空いたような静けさが訪れた。この広いショッピングモールに、音らしい音はない。聞こえるのは自分の心臓の鼓動だけ。灰色の世界で、私と誰かを繋いでくれる唯一の糸……私は、砂の瓶を取り出した。どこまでも私のそばにいてくれる、私の分身。ブックカバーに差し込んで開くと、穏やかで、懐かしい光に身体が包まれた。
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気がつくと、私は陽だまりの中のベッドに横たわっていた。窓の外からは、小鳥のさえずりと子供たちの笑い声が聞こえる。自分の手には深くシワが刻まれ、所々にシミが浮いていた。私は、すっかり年老いていた。身体は思うように動かないけれど、不思議と苦しくはなかった。
私の手を、柔らかいものが包んでいる。視線を動かすと、白髪になった男性が、優しい目をして座っていた。誰だろう。思い出せない。でもその手の温かさは、ずっと昔から知っている。私の夫だろうか。彼は、私のしわくちゃの手を、何度もさすってくれている。
「……ありがとう」
かさかさの唇から、か細い声が漏れた。何に対しての感謝なのか、自分でも分からない。でも、そう言わずにはいられなかった。男性は、にっこりと微笑んで、私の手に自分の頬を寄せた。
その向こうに、もう一人、涙をこらえている美しい女性の姿が見える。ぱつんと切りそろえた栗色の前髪が印象的な、どこか懐かしい面影の女性。私たちの、娘だろうか。
心は、凪いだ春の海のように、穏やかだった。何の不安も、後悔もない。ああ、私は、ちゃんと生きた。ちゃんと、幸せだった。そう確信できた。ありがとう。もう一度、心の中で呟きながら、私はゆっくりと目を閉じる。意識が、すぅっと遠のいていく。暗闇は、少しも怖くなかった。
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……身体が芯から熱かった。
目の前には、色のないショッピングモールの家具売り場が広がっている。さっきまで感じていた陽だまりの温かさも、優しい手の感触も、どこにもない。ただ、氷のように冷たい静寂と、灰色の現実があるだけ。
塔のベッドで、作家になって、愛する人と結ばれるという未来をみた時、私の心には確かに光が灯った。消されるのが怖いからじゃない、あの未来にたどり着きたいからナンバーを取り戻すんだって、そう決意したはずだった。
でも、この色のない世界でたった一人になって、その決意は揺らいでいた。アッシュはいない。高見さんもゴブチンも、どうなったか分からない。未来なんて都合のいい夢だったのではないか。そんな不安が、胸の奥に冷たく広がっていた。
けれど、いま見たものは違った。
あれは私の人生の、穏やかで満たされた、最後の瞬間そのものだった。確かな安らぎは、夢なんかじゃない。私がこれからたくさんの出会いと別れを繰り返してたどり着く、本当の終着点。あの塔で感じた希望は、間違いじゃなかった。私は今それを確信する。
私はエミリアに返事を書くことにした。この決意を伝えなければいけない。再びモールの中を歩き回り、文房具フロアを見つけた。売り場には、色とりどりのはずの便箋や封筒が、灰色の濃淡で並んでいる。その中から、星の模様が透けて見えるレターセットを選んだ。きっと本当は水色なんだろうな、と想像する。
手紙を書くなら、もっと落ち着ける場所がいい。私は最上階のレストランフロアへ向かった。窓際の街を一望できるカフェを見つける。外の景色は、白黒に点滅するビルの灯りが広がるだけだったけれど、ソファは私の身体を優しく包んでくれた。私はテーブルに便箋を広げ、ペンのキャップを外した。
親愛なるエミリアへ
あなたも、旅の途中、一人で怖かったんですね。私と、同じように。
私はいつも「ジャンプ」と一緒でした。目が覚めるたびに、少しだけ違う世界にいる。パパもママも友達も、昨日までと同じ顔をしているのに、どこか違う人みたいに感じる。だから私は、毎朝「はじめまして」って挨拶しなくちゃいけなかった。
あなたは、世界のすべてが見えるのに、触れることができない。それはどんなに寂しいことでしょう。私たちは、違う理由で、同じくらい一人ぼっちだったのかもしれませんね。
聞いてください。私はあのメールを送ってから、信じられないような冒険をしたんですよ。団子っ鼻で親切な店主さん。優しくて頼りになる高見さん。生意気だけど本当は世界のことを心配しているゴブチン、訂正、門番。そして、いつも私の隣にいてくれる、優しくて賢くて、でもちょっと怖がりなアッシュ。たくさんの出会いがありました。
それで私、見たんです。あの塔のベッドで一度。そして、今いるこの場所でもう一度。自分の未来を。誰かの手に包まれて、とても穏やかで、少しも怖くなかった。「ああ、私は幸せだったんだ」って、心の底から思えました。
だから、私の決意は、もう揺らぎません。
あの塔で感じた「帰りたい」って気持ちが、間違いではなかったと、はっきりと分かりました。私の「家」は、場所じゃない。私が帰るべきなのは、未来なんです。
何が待っているのか、まだ分かりません。きっと、怖いことがたくさんあるんだと思います。でも不思議と、今は心が静かです。帰るべき場所ができたから。あなたとは、いつかきっと会える気がします。そしたら、カフェオレでも飲みながら、ゆっくり話がしたいな。
Sincerely yours,
メグミ
書き終えた手紙を、封筒に入れる。どうやって届けようか。カフェの大きな窓ガラスを、こん、と何かが叩いた。見ると、あの黒い鳥がテラスの手すりにとまって、私を見ていた。私は頷いて窓を開け、鳥に手紙を差し出した。鳥は慣れた様子でそれを受け取ると、一度だけ私に向かって羽ばたき、灰色の夜空へと高く舞い上がっていった。
鳥を見送ったら安心して急に眠気が襲ってきた。私はベッドに大の字に寝転んだ。身体がすぅと下に沈んでいった。
翌朝、私は新しい気持ちで目を覚ました。朝日が昇らない灰色の空の下を、再び歩き出す。鳥が、待っていたように、少し先で羽ばたいた。
大丈夫。私は、あの未来にたどり着ける。




