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5.喪失の街(1)

 最初に感じたのは、硬い地面の感触。次に、頬を撫でる冷たい風。身体を起こすと、見覚えのある景色だった。横断歩道の向かいに「四ツ谷駅」と書かれた駅舎が見える。

 

 違和感の正体に、すぐに気づいた。誰もいない。歩道を歩く人の姿も、眼の前の車道を通る車も、駅前広場の喧騒も聞こえない。本当に人一人の気配もなかった。そして色がない。すべてが灰色に塗りつぶされ、モノクロ映画の中に迷い込んだようだ。


 私はなんとなく事態を理解した。これだけあちこち世界を飛び回っていれば、たいがいのことにはもう驚かない。ようするに人が消えた。そういう世界に跳んできたというわけ。でも電車は動いているみたい。信号も変わる。赤じゃなく黒に。いったい誰がこの信号を守るのだろう? 私はもう何度目かの深いため息をついて、どうしたものかと考えた。


 道端に座り込んでいると、羽ばたきの音が聞こえた。見ると、一羽の真っ黒な鳥が、灰色の空から舞い降りてきて、すぐそばのガードレールにとまった。カラスではない。もっと小さく、しなやかな身体つきをしている。その鳥は、ただじっと、私を見つめていた。

 くちばしには、小さな巻物のようなものが、大事そうに咥えられていた。鳥は私を警戒するでもなく、ガードレールから飛び降りると、とてとてと足元まで歩み寄ってきた。私の顔をじっと見上げ、首を傾ける。まるで、「受け取って」と言っているかのようだった。

 手を差し出してみる。鳥は逃げない。私の指先が、くちばしの紙にそっと触れる。鳥は心得たように口を少し開き、私の手のひらに、手紙をことりと落とした。



Dear メグミ

はじめまして。メールをありがとう。


送ってくれたメールを何度も読み返しました。あなたとは一度も会ったことがないのに、とても古くからの友人に感じます。あなたが私に貴重な秘密を教えてくれたように、私もあなたに、秘密を伝えさせてください。


ちょうど夏が終ったばかりの頃で、まだ草も元気で日も長かった。私は母から街へのお使いを頼まれました。初めての遠出が、嬉しくてね。小さい私でも急げば日没までには村へ帰れるから、お気に入りのカバンに色々なもの――飲み物とか、ビスケットとか、街でつける縞のスカーフとか――を入れて、お昼ちょうどに村を出たの。


村を出てしまうと、先には広い草原がずうっと続いているだけ。道の行く手に大きな山が聳えていて、正直言って怖かったわ。これから私は独りで行くんだ、あの街まで私は独りで行くんだ。そう考えるとたまらなく怖かった。でも同時にわくわくしてもいたの。わかるかしらこういう気持ちって? 


途中に壊れかけた荷車や、誰も住んでいない丸太小屋や、深い井戸や枯れた大木や、羊の彫刻やらがあって、私はそういうもの全てが珍しくて、ぜんぶ眺めて歩いた。そしてちょうど、鶏がもう一つ鳴くくらいで街へ辿り着くという頃だった。


道の向こうに、小さく黒い点が見えました。私の視線の上あたり。何だろうって目を凝らして見るけど、何なのかさっぱり分からない。それでも歩き続けながらじっと見ていると、黒い点はだんだんと大きくなって、やがて鳥だと分かった。黒い鳥だったのよ。


正体が判明しても、私は磁石に吸い付けられたみたいにその鳥を凝視し続けたわ。私が歩く、その道を、鳥は一直線に私へ向かって進んで来る。私はその鳥から目が逸らせなかった。頭が固まって動かないの。その間にも着実に鳥は私の方へ向かってくる。私も茫然としながら鳥へ向かって歩き続けた。


鳥が近づくにつれて、神経が一つ残らず尖っていくの。周りの空気が詰まって、きいんと耳鳴りがして、頭が伸び縮みするようにひどく痛んだ。何かいけない一点に向かって全てが飲み込まれていく感じだったわ。 


ふと私たちはすれ違い、鳥は私の頭の上を通り抜けていった。あっけないくらいに軽々しく、ひょいと。砂で出来た扉を開けるみたいだった。あると思って力を込めたところに何もなかったのよ。


私、胃から何から内臓が全部出るんじゃないかと思うくらい激しく吐いて、恨めしい気持ちで、去って行く鳥を見送った。街に着いた時も、まだ狂ったように泣いていた。私が泣きやんだのはいつのことだったかしら? 良く覚えてはいないのだけれど。


私がSMMM理論を思いついたのはその翌朝でした。


宇宙の大規模構造を表す方程式に下限値をもつ時空間ポテンシャルファクターを導入して解いてみました。するとその方程式は、無限個の解を持つことがわかったんです。一般的には、そのような解法は失敗と考えられます。問題に無限個も答えがあるとしたら一体何の役に立つでしょうか。


ただしその解は帰納的に可算で、まあ簡単にいうと一から順番に並べて番号を付けられる性質を持っていました。無限の可能性に溢れた宇宙に整然と番号がつけられるなんて不思議ですよね。それで私、気付いたの。その番号に、一定の法則があると。


「鳥はいつかすれ違う」私の大学の恩師は言いました。「ウサギは亀に追いつく。飛んでいる矢は的に当たる。木から落ちたリンゴは地面に届く」


好むと好まざるとにかかわらず。


Sincerely yours,

あなたの懐かしき友人

エミリア・クワントウェル



 色のない世界で、私だけが一人ではなかった。エミリアもまた一人で街までの道を歩き、あの鳥に出会ったのだ。お礼を言おうと顔を上げたら、手紙を届けてくれた鳥はもういなかった。


 そうだ、始まりの場所へ行こう。エミリアの論文を見つけた、あの図書館へ。そこへ行けば、何かが分かるかもしれない。私はそう思った。


 図書館は「自由が丘」という場所にある。電車はどうやら動いているみたいだし、利用しない手はない。私は信号を無視して道路を渡ると、改札機を飛び越えて駅に入った。電車がホームに入線してくるのが見えた。発車のベルを聞きながら狭い通路を抜け、階段を二段飛ばしで下りる。閉まりはじめたドアの隙間に身体をねじ込もうとして、私はとっさに身を引いた。ドアが一瞬、開き、改めて閉まると、列車はするするとホームを出た。きっと今ごろ車内では「かけこみ乗車はおやめください」のアナウンスが流れているに違いない。


 電車には乗らなかった。階段を駆け下りながら、私は電車の行き先を横目で確認した。ほんの一瞬。「夢の木坂方面」と見えた。夢の木坂なんて駅、知らない。頭が危険信号を鳴らし、駆け込む直前で思いとどまった。危ない、危ない。おかしなところへ連れていかれるところだった。油断も隙もあったものじゃないと思った。電車が信用できないとすると、道路を行くしかない。四ツ谷から自由が丘、何キロあるだろう……


 あの鳥が空から降りてきて、目の前の電線にとまった。鳥はしばらく私を見ていた。短く一度鳴くと、ふわりと飛び立ち、少し先の角を曲がって、またこちらを振り返った。私は立ち上がり、黒い導き手の後を追いかけた。


 近くの川に船が浮かんでいるのが見えた。渓流下りの船にそっくりで、人が大勢乗っている。なんだ、人はいるんだと安心した。船頭さんがのんびり舵を漕いでいる。人はみな、立ったままうつむいていた。水面を鑑賞してるのかと思ったけど、視線は足元から動かない。誰ひとり顔をあげない。水辺の木々は気持ちいい。ゆったり眺めればいいのに。


 船が目の前を通りすぎると、次の船が少し遅れてやってくるのが見えた。そこにも大勢の人が乗っていた。みな、足元を見つめて顔を上げようとしない。船頭の唄声がかすかに聞こえる。船頭は漕いでいるフリをしていて、両手はからっぽだった。これでは船は曲がることさえできない。ただ川に流されているだけだ。私はこれ以上、この行列を見続けたらいけないと思って、川から目を逸して先を急いだ。


 私たちは、誰もいない表参道を歩いた。ブランドショップのショーウィンドウは、巨大な墓地のように静まり返っている。風が、落ち葉と紙くずを転がしていく。青山通りを進むと、大学の正門が見えてきた。煉瓦造りの門には蔦が絡まり、その奥には静まり返ったキャンパスが広がっている。時計台の止まった針が刻む沈黙があった。私は門の隙間から中を覗き込んだ。誰もいないベンチ。ここに座って語られるはずだった未来が色を抜かれて漂っていた。


 次に鳥がとまったのは、美術館の生垣の上だった。黒い竹の塀の向こうには、確か庭園が広がっているはずだ。私は背伸びをして、中の様子を窺った。池は灰色の空を映す鏡となり、鯉の姿はない。苔むした石灯籠が、時の流れから取り残されたように佇んでいる。誰もいなくても庭は完璧さを保てるのだ。


 やがて、広い広場に出た。国連大学の前、いつもなら週末にファーマーズマーケットが開かれて賑わう場所だ。今は石畳が広がっているだけ。野菜や果物の甘い匂いも、コーヒーを片手に談笑する人々の姿もない。風に吹かれて転がる、色のない一枚のチラシが、賑わいの記憶を伝えていた。


 渋谷のスクランブル交差点の真ん中に、私は立ち尽くした。世界で最も混雑する場所。今はだだっ広いアスファルトの空間が広がっているだ。街頭ビジョンは黒い鏡のように沈黙している。信号だけが、誰も渡らない横断歩道に向かって、黒から白へ、白から黒へと点滅を繰り返していた。もし、このまま世界に色が戻らなかったら? もし、アッシュに二度と会えなかったら? 私はこの空っぽの交差点のようにただ点滅を繰り返しながら生きるのだろうか。


 日が暮れ始めた。空の灰色が、少しずつ濃度を増していく。歩き疲れた私は、巨大なショッピングモールに吸い込まれた。エスカレーターは止まり、BGMも流れていない。私の足音だけが、がらんとした空間に響いていた。


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