子供の口から溢れるノイズ
僕と姉とは五つ離れている。姉は大学を卒業してすぐに授かり婚をし、出産後に働き出した。
僕は、ゆうくんが産まれた時からこの家に出入りしている。その頃も父と母は働いていて忙しかったし、高校生だった僕の方が自由に動けていたのだ。
姉の旦那さんは基本は自宅からの通勤だが、数ヶ月に一回、地方への出張がある。そんな時は姉からのSOSが僕のもとに届く確率が高い。
僕は、冷蔵庫から出してきた冷たい麦茶を自分たちの分のグラスに注いだ。注ぎ終えるとすぐに、ガラスの表面にじわじわと細かい結露ができ始める。
琴音ちゃんは、フローリングにゆうくんと一緒に座り、お得意の歌声でゆうくんと手を叩きながら童謡を歌っている。
奏多もそれに合わせて手を叩いたり、大袈裟に歌ったりして場を盛り上げていた。
歌うだけ歌ったゆうくんは、パッと立ち上がり、テレビ台の横に置かれた大きなプラスチックのおもちゃ箱の方へ駆けて行った。
そこからお気に入りのミニカーをごちゃごちゃと取り出して、再びリビングの中央で機嫌良く遊びだす。
僕は対面式のキッチンで冷蔵庫から出してきた冷たい麦茶をグラスに注ぎ、リビングのローテーブルへと運んだ。
ファブリック調のローソファには奏多が背もたれに寄りかかって座り、琴音ちゃんはその横のフローリングにちょこんと直に座って、遠目からゆうくんを見守っている。
トレーからグラスを下ろすと、ガラスの表面にじわじわと細かい結露ができ始めた。
「ほんと今日はごめんね、せっかくの企画会議だったのに……」
琴音ちゃんは、ゆうくんに送っていた視線をソファから僕の方へ向け、穏やかに笑った。
「ううん、全然大丈夫。私、施設だけじゃなく、保育園とかにも歌をうたいに行ったりしてるんだけど、小さい子って可愛くて無邪気で、見てるだけで癒やされるから好きなんだよね〜」
奏多はそれを聞き、頷きながら穏やかな笑顔を見せた。
「俺の周りにこんな小さい子いないから、新鮮だわ〜」
――と、その時だった。
床にパトカーのミニカーを滑らせ始めたゆうくんが、小さな鼻歌を歌い出した。
――お〜み、じ、ちょ〜だぁ〜い――
小さな唇をモゴモゴと動かす、子供特有の舌足らずな発音。だけど、その抑揚のない、どこか冷ややかな高音のメロディが鼓膜に触れた瞬間、僕の心臓はドクンと嫌な跳ね上がり方をした。
ガタ、ゴトッ!!
隣で、琴音ちゃんが手からグラスを落とした。重い音がリビングに響き、濃い茶色の液体がフローリングに勢いよく広がって水たまりを作っていく。
だが、琴音ちゃんは自分の服が濡れるのも構わず、微動だにせず、血の気の引いた顔でゆうくんを凝視していた。
僕は弾かれたように立ち上がり、ゆうくんの傍に駆け寄っていた。気づいた時には、その小さな両肩を強く掴んでしまっていた。
……間違いない。僕の脳が、その音程の『正体』を完全に認識して拒絶している。
あの不気味なトンネル動画のノイズの音程。そして、琴音ちゃんを苦しめている耳鳴りのメロディと、完全に一致しているのだ。
「ゆうくん!! その歌、どこで聴いたのっ!?」
僕のあまりの剣幕に、ゆうくんはビクッと身体を震わせ、驚いた顔で僕を見上げた。
「え? わかんない。……お口が勝手に、お歌うたったの」
ゆうくんは僕の手を怖がるようにすり抜けると、何もなかったかのように、またミニカーを「ブーン」と動かし始めた。
まだ何も状況を把握できていない奏多が、怪訝そうな顔をして琴音ちゃんと僕を交互に見る。
「え……? 何なに? 二人とも大丈夫??
響ぃ〜、とりあえずなんか床拭くもの貸してぇな〜」
奏多の声で、僕はハッと我に返った。キッチンから持ってきた布巾を奏多に押し付け、床の麦茶を拭き取ってもらう。
その間も、僕と琴音ちゃんの視線は交わされたままだった。
「響くん……。私が前に、ファミレスで口ずさんだあのメロディ……まだ、覚えててくれたの?」
琴音ちゃんは微かに声を震わせながら、僕をすがるような目で見つめてきた。
「それもあるけど、それだけじゃないんだよ……」
僕は声を潜め、奏多に聞こえないように早口で告げた。
「覚えているんじゃなくて……実は、前に行ったトンネルの動画を編集している時に、引っかかったノイズがあって、それが耳にずっと残っていたんだ。そのノイズのメロディが、琴音ちゃんがファミレスで歌ったメロディと、今ゆうくんが口ずさんだメロディと同じだっんだ……」
「え……? じゃあ、動画の時からずっとあのメロディを知って……?」
琴音ちゃんがショックで唇を震わせた、その時だった。
テレビの前にいたゆうくんが、リモコンを握りしめたまま、不満そうにこちらを振り返った。
「……きこえない」
ピシッ、と部屋の空気が凍りついた。
僕と琴音ちゃんは、血の気が引いた顔で同時にゆうくんの元へと駆け寄った。
「ゆうくん!? 今、なんて言ったの!? 耳、耳が聞こえないの!?」
僕がゆうくんの小さな顔を覗き込み、必死に問いかける。琴音ちゃんも後ろで呼吸を荒くして震えている。
すると、ゆうくんはプクッと頬を膨らませて、僕の胸のあたりを小さな拳でポカポカと叩いた。
「ちがうよー! おにぃにたちが大きい声でお話しててうるさいから、テレビの音が聞こえないの! 静かにして!」
「……あ」
あまりの怒られ方に、僕と琴音ちゃんは呆然と立ち尽くし、それから一気に大きなため息を漏らした。
「なんだよ二人して大袈裟なー。ほら、ゆうくん、お兄ちゃんたち静かにするからなー」
床を拭き終えた奏多が、相変わらず何も気づかないまま、ゆうくんの頭を撫でて笑っていた。




